北伐への決意(出師表) -漢室復興を目指して-

南方の反乱を平定し、蜀漢の後背を安定させた諸葛亮は、

いよいよ本格的に魏への進攻を開始します。

 

ただし、「南蛮を平定したから北伐を決意した」という単純なものではありません。

 

 

劉備が白帝城で亡くなった後、諸葛亮は劉禅を補佐しながら蜀漢の国政を立て直し、

呉との関係を修復し、南方の反乱も鎮めていきました。

 

そして国内がある程度安定すると、

劉備以来の「漢室を復興する」という大義を掲げ、魏への進攻に踏み切ったのです。

 

当時の魏では曹丕が亡くなり、若い曹叡が帝位を継いだばかりでした。

 

しかし、これは単純に「魏の皇帝が若くなった今こそ好機だ」と判断したというより、

魏の内部や周辺情勢を見極めたうえで、蜀漢として軍事行動を起こす時期が来たと考えるべきでしょう。

 

そして建興五年(227年)、諸葛亮は劉禅に『出師表』を上奏します。

そこには、劉備から受けた恩を忘れず、先帝の遺志を継いで魏を討つ決意が述べられていました。

 

また、単に魏を攻める決意だけではありません。

宮中と府中の政治を分け隔てなく整え、忠義の臣を信頼し、

讒言や私情によって政治を乱さないよう、劉禅に対して細かな政治上の進言も行っています。

 

つまり『出師表』とは、単なる「魏討伐の宣言」ではなく、

「先帝の遺志を受け継いで出陣する自分に代わり、皇帝である劉禅には国政を正しく守ってほしい」

という、諸葛亮から劉禅への政治的な託宣でもあったのです。

 

『出師表』が後世にまで名文として称えられてきたのは、

そこに諸葛亮の忠誠だけではなく、劉備への恩、劉禅への忠告、

そして蜀漢という国家を背負う覚悟が込められていたからでしょう。

第一次北伐 -隴右を揺るがした蜀漢軍-

建興六年(228年)、

諸葛亮は漢中から北へ進軍し、いわゆる第一次北伐を開始します。

このとき諸葛亮が狙ったのは、いきなり長安へ突入することだけではありませんでした。

 

蜀漢軍が進出すると、天水・南安・安定の三郡が蜀漢に呼応します。

魏の隴右地方が大きく揺らいだことで、第一次北伐は一時的に大きな成果を挙げたようにも見えました。

 

また、諸葛亮は北伐に先立って、魏に降っていた孟達とも連絡を取っています。

孟達はかつて蜀漢に仕えていましたが、劉備との関係が悪化して魏へ降伏していました。

 

魏では曹丕の時代に厚遇されていましたが、

曹丕が亡くなった後、その立場は以前ほど安定したものではなくなっていました。

諸葛亮はそこに目をつけ、孟達を魏の内部から動かそうとします。

 

孟達もこれに応じて反乱を起こしましたが、

蜀漢軍の本格的な援軍が到着する前に、司馬懿が迅速に軍を動かします。

司馬懿は孟達の反乱を鎮圧し、孟達は討ち取られてしまいました。

 

つまり、第一次北伐の幕が開く頃には、すでに諸葛亮の計画の一部は司馬懿によって崩されていたのです。

隴西をめぐる攻防 -守り抜いた游楚-

蜀漢軍は隴右へ進出し、各地で魏軍を揺さぶりました。

しかし、すべての地域が蜀漢に降ったわけではありません。

隴西郡では太守の游楚が城を固く守り、蜀漢軍に屈しませんでした。

諸葛亮はこの城を無理に攻略することなく、軍を引きました。

 

後世には「ここで隴西を攻め落としていれば、北伐の結果は変わっていたのではないか」と語られることもあります。

しかし、これはあくまで後世から見た評価です。

 

諸葛亮にとっては、敵城を無理に攻めて時間と兵力を消耗するよりも、

別の要地を押さえ、全体の戦線を維持することを優先したとも考えられます。

 

第一次北伐が崩れる直接の原因となったのは、むしろその後の街亭の失陥でした。

街亭戦の敗北

蜀漢軍にとって重要な要衝となったのが街亭です。

諸葛亮はここを馬謖に守らせました。

馬謖は兵法について深い知識を持ち、諸葛亮から高く評価されていた人物でした。

 

しかし、街亭では大きな判断ミスを犯します。

馬謖は山上に陣を構えましたが、魏の張郃はこれを見逃しませんでした。

 

張郃は蜀漢軍を包囲し、水路を断つことで馬謖の軍を孤立させます。

やがて蜀漢軍は敗走し、街亭は魏の手に落ちました。

 

このとき王平は馬謖に従っていましたが、馬謖とは異なる判断をしていたことが記録されています。

 

王平は兵を整然とまとめて退却し、蜀漢軍の完全な崩壊を防ぎました。

街亭を失ったことで、諸葛亮は隴右で獲得していた地域を維持することが困難となります。

そのため、蜀漢軍は漢中へ撤退することになりました。

 

第一次北伐は、隴右の三郡を一時的に動揺させるところまで成功したものの、

街亭の失陥によってその成果を維持できず、終わったのです。

 

馬謖は敗戦の責任を問われ、処刑されました。

これが後世有名になる「泣いて馬謖を斬る」の故事につながります。

 

ただし、この言葉そのものは後世に形成された表現であり

、『三国志』本文にそのまま「泣いて馬謖を斬る」という四字句が登場するわけではありません。

 

正史では、諸葛亮が馬謖を処刑したこと、そして彼を惜しんだことが記されています。

諸葛亮は軍律を維持するため、個人的に評価していた馬謖であっても処罰しました。

 

第一次北伐の失敗は、諸葛亮にとって極めて大きな教訓となったことでしょう。

第二次北伐 -陳倉城の堅守-

第一次北伐から間もなく、諸葛亮は再び魏へ軍を進めます。

これが第二次北伐です。

 

今度の標的となった重要拠点が陳倉でした。

魏は陳倉を守るため、郝昭を配置していました。

郝昭は少数の兵を率いて城を固守し、蜀漢軍の攻撃に耐え続けます。

 

蜀漢軍は城を包囲して攻撃を続けました。

しかし、城壁をよじ登るための装備や攻城兵器を投入しても、郝昭は火や石などを用いてこれを防ぎました。

さらに蜀漢軍は地下から城内へ侵入しようとしますが、これにも魏軍は対応します。

こうして陳倉城は容易には落ちませんでした。

 

そして、蜀漢軍は長期間の攻城によって食糧事情が厳しくなります。

最終的に諸葛亮は撤退を決断しました。

 

第二次北伐は、第一次北伐のような大規模な領土獲得には至らなかったものの、

魏の守備体制が極めて強固であることを改めて示す戦いとなりました。

第三次北伐 -武都・陰平を奪取-

その後の第三次北伐では、武都・陰平方面へ進軍しました。

この地域を蜀漢が確保したことで、漢中西方の防衛線を強化することができます。

第一次・第二次北伐のように大きく魏の中枢へ迫ったわけではありませんが、蜀にとっては決して小さな成果ではありませんでした。

 

魏もこれを黙って見ていたわけではありません。

曹真らが蜀漢への反撃を試みますが、悪天候などの影響もあり、魏軍は十分な成果を上げることができませんでした。

 

この時期から、蜀漢と魏の戦いは単純な一度の決戦ではなく、

国境地帯の要衝を奪い合うような長期的な戦争へと変化していきます。

第四次北伐 -司馬懿との対決-

建興九年(231年)、諸葛亮は再び祁山方面へ軍を進めます。

ここで蜀漢軍の前に立ちはだかったのが司馬懿でした。

 

後世の物語では、諸葛亮と司馬懿は第一次北伐から宿命のライバルだったかのように描かれます。

しかし正史を見る限り、両者が大規模な軍事的対峙をするようになるのは、この第四次北伐の頃からです。

 

この戦いでは、蜀漢軍と魏軍が何度も対峙します。

諸葛亮は戦場で魏軍を苦しめ、一定の戦果を挙げました。

 

しかし蜀漢軍にとって、またしても大きな問題となったのが食糧輸送でした。

李厳が輸送を担当していましたが、補給がうまくいかなくなります。

李厳はその責任を隠すため、諸葛亮に撤退を進言しました。

 

諸葛亮が撤退した後になって、李厳が事実を偽っていたことが明らかになります。

その結果、李厳は失脚し、庶人に落とされました。

 

この一件は、蜀漢にとって「戦場で勝つこと」と同じくらい、「兵站を維持すること」が難題であったことを象徴しています。

張郃の最期 -撤退戦で失われた魏の名将-

蜀漢軍が撤退すると、魏軍はこれを追撃します。

このとき追撃を担当した将軍の一人が張郃でした。

張郃は曹操以来の魏を代表する名将であり、第一次北伐では街亭で馬謖を破った人物でもあります。

 

ところが、この撤退戦の中で張郃は蜀漢軍に攻撃され、戦死しました。

 

こうして諸葛亮は北伐そのものでは大きな成果を得られなかったものの、

魏軍の有力将軍であった張郃を失わせるという戦果を得ることになりました。

第五次北伐 -五丈原で司馬懿と対峙-

そして建興十二年(234年)、諸葛亮は最後の大規模な北伐へと乗り出します。

これが五丈原の戦いです。

 

このとき諸葛亮は、それまでの北伐で繰り返し問題となった食糧輸送を解決するため、戦場周辺で屯田を行いました。

兵士が農耕を行い、現地で食糧を生産することで、長期戦に備えたのです。

これは諸葛亮が過去の北伐から得た経験を、最後の戦いに生かそうとしたものと見ることができます。

 

蜀漢軍は五丈原に布陣し、魏軍を率いる司馬懿と対峙しました。

しかし司馬懿は正面からの決戦を避け、堅固な陣営にこもって持久戦を選択します。

 

諸葛亮は魏軍を誘い出そうとしますが、司馬懿は容易に動きません。

こうして両軍は長期間にわたって対峙することになります。

五丈原に消えた諸葛亮

戦いが長期化する中、諸葛亮の身体は次第に衰えていきます。

そして建興十二年(234年)8月、諸葛亮は五丈原の軍中で病没しました。

蜀漢軍は総司令官を失ったことで撤退を開始します。

 

ここで後世非常に有名になったのが、

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事です。

 

この逸話は三国志演義にも登場する有名なものですが、正史『三国志』にある記録ではありません。

ただ「蜀志」諸葛亮伝(裴松之注『漢晋春秋』)にこの事が記録として残されています。

 

その三国志演義では諸葛亮の木像まで登場し、

司馬懿がそれを見て「孔明が生きている」と恐れて退却するという有名な場面へと発展しています。

諸葛亮はなぜ北伐を繰り返したのか

諸葛亮の北伐を振り返ると、五度の遠征を行ったにもかかわらず、

魏を滅ぼすという最終的な目標を達成することはできませんでした。

しかし、それだけを理由に「諸葛亮の北伐は失敗だった」と結論づけるのも少し違います。

 

蜀漢は魏に比べて国力が劣っていました。

人口、兵力、物資、そして長期的な兵站能力、どれを取っても魏に対して不利な立場にありました。

それにもかかわらず、諸葛亮は北伐を繰り返しながら、蜀漢そのものを崩壊させるような大敗を避けています。

 

もちろん兵士や民衆への負担が存在しなかったわけではありません。

北伐には莫大な兵力と食糧が必要であり、国力を消耗させたことも否定できません。

 

それでも、夷陵の戦いのような壊滅的な敗戦を招くことなく、

蜀漢の国家体制を維持しながら魏に圧力をかけ続けた点は、諸葛亮の政治・軍事能力を考えるうえで重要です。

 

正史『三国志』を著した陳寿は、諸葛亮の政治能力を非常に高く評価しています。

しかし同時に、軍事面については冷静な評価も下しています。

 

諸葛亮は軍を整え、兵を治める能力には優れていたものの、

「臨機応変の軍略」には弱さがあったとされ、それが北伐の成功を阻んだ一因として論じられています。

 

つまり陳寿が描いた諸葛亮は、何でもできる完全無欠の軍師ではありません。

 

政治を整え、軍を統率し、国家を運営する能力には非常に優れていた一方、

戦場で予想外の事態が起きた際に、それを自在に利用して大勝へつなげる能力には限界があったと記録を残しており、

それが、諸葛亮の北伐が何度挑戦しても魏を打ち破れなかった理由の一つだったと考えられます。

 

北伐に懸けた諸葛亮の生涯

諸葛亮は、最後まで魏を討つことを諦めませんでした。

 

第一次北伐では街亭で敗れ、第二次北伐では陳倉を落とせず、

第三次北伐では武都・陰平を確保し、第四次北伐では魏軍と激しく戦い

、そして第五次北伐では五丈原で司馬懿と長期にわたって対峙しました。

 

しかし、最後まで魏を滅ぼすことはできませんでした。

それでも諸葛亮は、劉備から託された蜀漢を守りながら、機会があれば北へ進むという姿勢を最後まで崩しませんでした。

その意味では、諸葛亮の北伐は単なる「魏を倒すための戦争」ではなかったのでしょう。

 

それは、劉備から託された国家を守り、

漢室復興という理念を掲げながら、蜀漢が決して魏に屈しないことを示し続ける戦いでもありました。

そして五丈原で諸葛亮が倒れたとき、その戦いもまた終わりを迎えます。

 

諸葛亮の後継者とされる蒋琬・費禕・姜維らですが、

劉備から蜀漢の未来を託され、その生涯をかけて国政と北伐を担った諸葛亮ほどの人物が、その後再び現れることはありませんでした。

 

諸葛亮の死は、一人の名宰相の死にとどまらず、

劉備が掲げた「漢室復興」という大きな夢を支え続けた時代の終わりでもあったのです。