諸葛亮(孔明)との出会い

劉表に新野城を与えられた劉備が、

夏侯惇・于禁の軍勢を博望坡で破ったなんて話もあったりしますが、

 

劉備が荊州に来てから注目すべき点は、

有名な故事成語が沢山出来ていることではないでしょうか!?

孔明は、博望坡の戦いで華々しい初陣を飾った?

 

 

 

まず真っ先に出来上がるのが「髀肉の嘆」で、

 

「今まで戦場に身を置き続けていたから、

太股に贅肉が付くなんてことはなかったけれども、

 

荊州で平和な暮らしがしばらく続いたせいで、

太腿に贅肉がついてしまった・・・

 

そればかりか私は年老いたにもかかわらず、

難の実績もあげれていない・・・」って意味になります。

 

 

そんなこんなで劉備が荊州に流れてきて、

一番の出来事といえばこれかもしれません。

 

諸葛亮との出会いですね!!

 

 

劉備が諸葛亮を味方につけるべく諸葛亮の住まいを訪ねるものの、

二度の不在で三度目にやっと出会えたという話は知ってる人も多いでしょう。

 

この時できたのが「三顧の礼」という言葉ですし、

諸葛亮が「天下三分の計」を説いたのもこの時だと言われていますね。

 

 

 

そして三度も訪ねてくれた劉備の行動に感銘を受けた諸葛亮は、

劉備に仕えることになるです

 

ふたりの関係を表す言葉として誕生したのが「水魚の交わり」なわけです。

 

 

ちなみに短期間ですけど、

徐庶も諸葛亮が劉備陣営に入る少し前に仕えてはいますね。

 

本当に短い間というのが残念過ぎますが・・・

 

 

三国志演義では徐庶が去り際に諸葛亮を紹介したみたいな流れですけど、

普通に二人とも被ってる期間で劉備に仕えてるのは余談です。

天下三分の計

曹操の南下&劉琮の降伏

諸葛亮が劉備陣営に参加してから間もなくして、

曹操が荊州へと侵攻を開始します。

 

丁度そのタイミングで劉表が没し、

 

劉琮が跡を継いでいますが、

戦わずして曹操に降伏してしまったのでした。

 

曹操は苦労なく荊州&荊州の兵士を手に入れたことで、

更に南下を開始!!

 

 

劉備は自分を慕う民衆を引き連れて南方へと逃げていくわけですが、

 

民衆を連れての行軍は非常に遅く、

曹操の先鋒隊に追いつかれて散々に打ち破られてますね。

 

 

まぁこの時に活躍したのが、

長坂での張飛の活躍です。

 

そのお陰で被害を食らいつつも、

なんとか撤退することに成功してるのですから張飛様様だったわけです。

 

 

 

ただ劉備は結構無責任ですね。

 

共に連れてきた民衆は、

見捨てる感じで散り散りになっちゃっていますし・・・

 

 

まぁそのあたりは曹操軍によって襲われているので、

どうしたらいいか分からなくなってしまっているので仕方ないと言えば・・・

 

 

とりあえずこれ以上は、

劉備だけでは曹操と戦う事は不可能と判断したこともあり、

 

諸葛亮が孫権を味方にすべく呉へと渡っていくのでした。

孫権との同盟&赤壁の戦いの勝利

諸葛亮のお陰で、

劉備・孫権連合軍が成立したわけですが、

 

実際にほとんどの戦いを担ったのは孫権だと言われていますね。

 

 

それなのに何様と言わんばかりに、

「こちらの兵力は三万である!」と言う周瑜に対して、

 

劉備が「たったそれだけの兵士で大丈夫なのか!?」

みたいな失礼な事を言ったりした逸話もあったり・・・

 

 

他にも孫権陣営が劣勢にでもなろうものなら、

すぐにでも逃げれる布陣を敷いていたりと・・・

 

まぁそんな劉備だからこそ、

長らく乱世を生き抜いてくることができたのでしょうけどね。

 

 

ただ実際は周瑜や黄蓋の活躍もあり、

赤壁の戦いは連合軍の大勝利で幕を下ろすこととなります。

 

実際は赤壁の戦いは、局地戦の一つにすぎない説もありますし、

何より曹操は歴史で思われているような大被害を受けていないという説もあったりします。

 

 

他には曹操が撤退した一番の原因は、

疫病だという説もあったり・・・

 

ただ曹操軍が疫病で苦しんだ話は、

沢山残っている点からも案外有力な説かと思いますね。

 

 

どういう形にしろ、赤壁の戦いで連合軍が勝利したお陰で、

曹操・孫権・劉備の三国時代に突入していくこととなるわけです。

曹操が赤壁で敗れた原因は、疫病(住血吸虫病・チフス)のせい?

荊州南部四郡の制圧

赤壁の戦いで勝利を収めたことで、

劉備は迅速に荊州南部の切り取りに動きます。

 

領地を持っていない劉備だからこそ、

このタイミングを逃すことだけはできなかったと思いますね。

 

 

そして劉備は、荊州南部の四郡の制圧に見事に成功!

※荊州南部の四郡=零陵・桂陽・武陵・長沙

 

勿論単純に劉備が侵略して治めたというのでは、

孫権らも納得しないということもあり、

 

劉表の長男であった劉琦を荊州刺史として立てるという対策をしています。

 

 

ただもともと病気がちであったことからも、

それからしばらくして劉琦は病死してしまったのでした。

 

勿論跡を継いだのは劉備なんですが・・・

 

 

孫権は劉備の勢力が大きくなるのを警戒し、

ここで自分の妹であった孫夫人を劉備に娶らせて婚姻関係を結んでいます。

正史から見る孫夫人(孫尚香) 〜曹操・孫権と並んで脅威とされた女性〜

 

 

 

この時は魯粛が孫権に与えた影響も非常に大きなもので、

 

劉備に一定規模の領地を与えておくことは、

曹操と対抗する上でも大事なことだと魯粛が考えていました。

 

もともと「天下三分の計」を最初に唱えたのは、

諸葛亮ではなく魯粛だったりしますからね。

 

 

 

一方の周瑜は魯粛と違って、

納得していなかったのは言うまでもないですが・・・

 

 

とりあえず劉備はというと、

「益州を奪ったら、

荊州南部は孫権殿に返しますよ!」

みたいなことも言う始末なんで、

 

これに怒りを覚えた周瑜は、

「天下二分の計」実現の為に益州進出を実行へと・・・

 

しかしそ先の戦いでの傷が悪化したことで、

周瑜は死んでしまいます。

 

 

劉備・諸葛亮にとっては、

周瑜の死は願ったり叶ったりなことだったでしょう。

 

もし周瑜が益州に進出していれば、高い確率で奪えたと思いますし、

そうなれば天下三分の計など夢物語でしたから・・・

 

このあたりを見るだけでも、

劉備が強運の持ち主だと言わざるを得ませんね

周瑜が描いた益州攻略からの「天下二分の計」

劉備の入蜀

益州侵略を考えていた劉備のもとに、

 

「漢中の張魯が益州を狙っているので助けて欲しい!」

という依頼が届くのですが、

 

その口実を作ったのが、

今回使者としてやってきた張松・法正だったのです。

 

二人は劉璋が君主の器ではないと判断し、

「劉備を益州の主に迎えたい!」と考えていました。

 

 

劉備にとってはまさにチャンス到来で、

龐統の強い勧めもあり、兵を率いて益州へと出発!

 

ただ劉備が益州に入ったからと国盗りにすぐに国盗りに動いたわけでなく、

動くタイミングをはかっていたようですね。

 

 

実際劉璋が劉備歓迎の為に宴を開いたのですが、

 

龐統の意見としては、

「ここで劉璋を捕らえて益州を手に入れるべきです。」

と進言したのですが、

 

劉備は「まだ時期尚早である!!」

と慎重な行動をとっていますね。

益州攻略(成都攻略)&実質的な三国時代の成立

曹操と孫権の間で戦争が勃発すると、

孫権への援軍名目で兵を動かしやすくなったことから、

 

この時に目付け役ともいえる高沛・楊懐の二人を殺害し、

成都に向けて兵を進めます。

 

また荊州に残っていた諸葛亮・張飛・趙雲らにも

益州へ入るように指示が飛んだことで益州の郡県攻略に動き出すことになります。

 

 

 

劉備は涪城・綿竹攻略と順調でしたが、

雒城を守る張任らが激しい抵抗をしてきた為に苦戦を強いられてしまいます。

 

一年にも及んだ雒城での戦いの中で、

一番の誤算は流れ矢での龐統の死だったでしょう。

 

 

そういう不運にもあいつつ、

やっとのことで雒城攻略に成功し、

 

益州の都であった成都へと劉備は兵を進めます。

 

 

そして諸葛亮・張飛・趙雲らも劉備軍に合流!

 

また馬超が劉備陣営に加わりたいとのことで、

これは劉璋にとっては恐怖でしかなかったようで・・・

 

 

この時に劉璋への使者となったのが、

劉備が旗揚げ時より共にしていた簡雍であり、

 

「これ以上民衆を苦しめたくない」

という劉璋の考えもあって劉備へ降伏したのでした。。

 

ちなみに三国志演義では、馬超・馬岱らが劉璋を降伏させる形になってます。

劉璋 -民衆を第一に考えた益州二代目-

いぶし銀、簡雍(かんよう)/劉璋を降伏させた男

漢中攻略戦からの漢中王就任

劉備が益州攻略に成功して間もなく、

曹操によって漢中攻略される事態となります。

 

「漢中は蜀の入口」ともいえる存在で、

張魯ならまだしも曹操が支配するとなると厄介度が非常に増してしまいます。

 

 

それだけでなく益州を手に入れても荊州を返す気がない劉備に対して、

孫権は完全に激怒して荊州へと攻め込んできたのです。

 

 

益州を手に入れて間もない今に、

両者と戦争になることだけは避けないといけないと判断した劉備は、

 

孫権と盟約を結び直し、

桂陽・長沙の二郡を正式に孫権へと返還したのでした。

 

 

そして劉備は曹操から漢中を奪うべく、

総力戦ともいえる戦力で漢中へと侵攻を開始!

 

漢中を守る武将は、

曹操の重臣でもある夏侯淵・張郃らでした。

 

 

しかし黄忠が夏侯淵を斬り捨てることで優勢に展開し、

 

曹操自ら援軍にきても相手にせず、

漢中の守りに徹したことで劉備は曹操に勝利!!

 

 

ちなみに漢中攻略の立役者とも言うべき人物をあげるとすれば、

漢中攻略の作戦を立てた法正・黄権の二人ですね。

 

この二人いなくして、漢中攻略はできなかったというレベルやと思います。

北伐を成功に導けたかもしれない天才戦略家、法正(ほうせい) 〜もう少しだけ長生きしてくれればと思わずにはいられない人物〜

筋の通った生き方を貫き、劉備・曹丕から大きな信頼を受けた黄権

 

 

 

漢中は前漢発祥の地でもあり、

この地を手に入れた劉備は縁起も担ぎ漢中王を称します。

 

また劉備が漢中王を名乗った意味合いとしては、

曹操(魏王)に対抗して名乗ったというのは言うまでもないですね。

 

ただ曹操は216年に「魏王」になっていますから、

三年の月日を経た219年に「漢中王」を名乗ったという事になります。