曹操の魏公就任(魏国成立への歩み)

建安18年(213年)、曹操は献帝より魏公に封じられました。
これは単なる爵位の昇進ではなく、
後に魏王朝が成立する第一歩となる極めて重要な出来事でした。
それ以前の曹操は、建安13年(208年)に丞相へ復帰して政務を統括していました。
丞相は前漢以来の最高官職であり、名目上はあくまでも漢王朝を補佐する臣下の地位に過ぎませんでした。
しかし魏公への封建は性格が大きく異なります。
魏という国号を持つ封国が与えられ、曹操は諸侯として一国を統治する立場となりました。
形式上は漢王朝の臣下でありながら、独自の国家を持つ存在となったのです。
さらに魏国には九錫の授与や独自の官僚機構の設置など、天子に準ずる特権まで認められました。
これは後に曹丕が禅譲を受けて魏王朝を建国するための土台となります。
なお、三公が廃止され、一時的に丞相制へ改められましたが、
これは曹操自身の政治的地位をさらに高める出来事の一つでもありました。
| 曹操が亡くなった後に曹丕が跡を継ぐわけですが、この時に三公が再び復活しています。
そして魏王朝最初の三公に就任したのは以下の三名になります。
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荀彧との決別(漢王朝への忠誠と曹操の覇業)
曹操最大の参謀とも評される荀彧は、
郭嘉・荀攸・鍾繇など数多くの人材を曹操へ推薦し、献帝奉戴の政策を強く支持した人物でした。
荀彧にとって曹操は、衰退した漢王朝を再建する忠臣でした。
しかし曹操が魏公就任を目指し始めると、荀彧はこれに反対します。
正史『三国志』では荀彧が魏公就任に賛同しなかったことが記されており、両者の間に政治的な隔たりが生まれたことがうかがえます。
ただ私の考えとしては、二人の間で儒教的な考えの隔たりが大きくなったことが原因ではないかと思っています。
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建安17年(212年)、荀彧は寿春方面へ従軍中に病没しました。
後世には「空箱を贈られ自害した」という逸話も広く知られていますが、
これは「魏志」荀彧伝(裴松之注「魏氏春秋」)など後世の史料に見られる説であり、『三国志』本文には記されていません。
そのため正史では病死と考えるのが最も妥当でしょう。
荀彧の死は、一人の名臣を失っただけでなく、
「漢王朝を支える曹操」という政治理念が終わりを迎えつつあったことを象徴する出来事でもありました。
荊州問題が生んだ孫権と劉備による亀裂
建安19年(214年)、劉備は益州を平定し、新たな拠点を手に入れます。
しかし、この成功は孫権との関係に大きな影を落としました。
赤壁の戦い以降、劉備は荊州南部を支配していましたが、
孫権側は劉備が益州を獲得した時点で、荊州を返還するよう求めます。
一方の劉備にとっても、荊州は『隆中対』で描かれた天下三分構想を実現するために欠かせない戦略拠点でした。
益州だけでは曹操と対抗できず、荊州を失えば北伐への足掛かりも失われます。
そのため劉備は返還要求に応じようとはしませんでした。
また孫権自身も、益州攻略に共同で参加する構想を抱いていたとされ、
劉備が単独で益州を手に入れたことは、東呉にとって決して面白い出来事ではありませんでした。
こうして赤壁以来続いてきた孫劉同盟は、次第に綻び始めます。
荊州争奪戦と単刀赴会

孫権は何度も荊州返還を求めましたが、劉備は
「涼州を得たなら返還する。」と返答したと伝えられています。
しかし当時、劉備は漢中すら支配しておらず、
その先の涼州を口にすることは、事実上返還を先送りする意思表示と受け取られました。
これに激怒した孫権は、呂蒙を派遣して荊州南部へ侵攻します。
呂蒙は巧みに進軍し、長沙・桂陽・零陵の三郡を次々と制圧しました。
一方、魯粛は益陽方面で関羽と対峙し、大規模な戦闘へ発展することを防ぎながら外交交渉を続けました。
この頃の出来事として有名なのが「単刀赴会」です。
『三国志演義』では、関羽が単身で魯粛の宴席へ赴き、
その胆力によって東呉側を圧倒した名場面として描かれています。
しかし正史では内容がやや異なります。
「呉志」魯粛伝によれば、関羽は会談へ赴き、魯粛から荊州返還について厳しく問いただされました。
魯粛は劉備の窮状を理解していた過去を認めつつも、
「今や益州を得た以上、約束を果たすべきではないか」と正面から迫っています。
最終的に両軍は全面衝突を避け、湘水を境界として講和が成立しました。
劉備は長沙郡・桂陽郡を孫権へ譲渡し、零陵郡・武陵郡・南郡を保持します。
演義のように関羽一人の胆力で荊州問題が解決したわけではなく、
実際には軍事・外交双方による妥協の結果でした。
漢中攻略戦&曹操の魏王就任
建安20年(215年)、曹操は張魯を降伏させ、漢中郡を手中に収めました。
漢中は関中と蜀を結ぶ要衝であり、ここを制圧したことで曹操は蜀漢への圧力を一段と強めます。
その翌年、建安21年(216年)、曹操はさらに魏王へ昇進しました。
魏公が公爵であったのに対し、魏王は王爵であり、漢王朝の臣下として到達できる最高位です。
魏王となった曹操には、王国としての制度がさらに整備され、
政治・軍事・人事においてほぼ独立国家と変わらない体制が築かれていきました。
当時、多くの人々は漢王朝の命運が完全に尽きつつあることを感じていたことでしょう。
もっとも、曹操自身が皇帝へ即位することはありませんでした。
ただ建安25年(220年)に曹操が没すると、
その跡を継いだ曹丕が献帝から禅譲を受け、漢王朝は正式に幕を閉じます。
こうして魏王国は魏王朝へと姿を変え、中国は魏・蜀・呉が鼎立する三国時代へ入っていくこととなりました。



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