荊州獲得への道 -赤壁後に劉備が最優先した領土確保-

建安13年(208年)、赤壁の戦いで曹操軍を撃退したことにより、曹操の南進は阻止されました。

しかし、この勝利によって最も大きな課題を抱えていたのは劉備でした。

 

孫権は江東という安定した基盤を持ち、曹操も華北の広大な領土を支配していました。

一方の劉備は、多くの兵を率いていたとはいえ、自らの本拠地を持たない流動的な勢力に過ぎませんでした。

 

そのため劉備にとって最優先すべき課題は、独立した政権を維持するための領土を獲得することでした。

 

そこで劉備は、曹操がなお支配していた荊州南部四郡(武陵・長沙・桂陽・零陵)の攻略へ乗り出します。

これらの郡は比較的短期間で劉備に帰順し、劉備は初めて安定した領地を手に入れることとなりました。

周瑜との思惑の違い -同盟国でありながら異なる戦略-

赤壁で最大の功績を挙げた周瑜は、

当然ながら荊州の主導権を東呉が握るべきだと考えていました。

 

周瑜が構想していた戦略は、まず荊州全域を確保し、

その後に益州を攻略して長江上流を支配するというものでした。

その上で江東と益州・荊州を基盤として曹操と対抗する長期戦略を描いており、後世には「天下二分策」と呼ばれています。

 

一方、劉備もまた荊州を必要不可欠な拠点と考えていたため、両者の利害は一致しませんでした。

周瑜が描いた益州攻略からの「天下二分の計」

天下三分の計

江陵攻防戦&周瑜の死&魯粛の外交

赤壁の戦いの後、周瑜は曹仁が守る江陵攻略に着手します。

江陵は荊州最大の要衝であり、攻略には約一年近い歳月を要しました。

その激戦の最中、周瑜は矢傷を負い、この負傷が後年まで尾を引いたと伝えられています。

 

建安14年(209年)末頃に江陵はようやく陥落しますが、

その翌年である建安15年(210年)、周瑜は巴蜀遠征を計画する途中で病没しました。

享年は三十代半ばと考えられています。

 

周瑜の早すぎる死によって、その壮大な戦略が実現することはありませんでした。

 

 

周瑜の後任となった魯粛は、

武力による対立よりも孫劉同盟の維持を重視しました。

 

魯粛は以前から曹操に対抗するには劉備との協力が不可欠と考えており、

赤壁開戦以前から孫権へその必要性を説いていた人物でもあります。

 

こうした外交方針のもと、劉備は荊州南部を支配し続けることとなり、

さらに孫権の妹(孫夫人)との婚姻も合わさり、両勢力の関係は一層強化されました。

なお、「荊州を借りた」という表現は後世に広く知られていますが、正史では契約内容が詳しく記されているわけではありません。

 

魯粛が南郡を劉備へ貸与したことは記録されていますが、その具体的条件については明確ではありません。

益州攻略への布石 -張松の献策と劉璋の判断-

荊州南部を確保した劉備は、次なる目標を益州へ定めます。

 

この計画を後押ししたのが、益州の重臣・張松でした。

張松は主君劉璋の政治に失望し、密かに劉備へ接近します。

そして益州の地理や軍事情報を伝え、劉備を益州へ迎え入れるよう劉璋へ進言しました。

 

当時、漢中では張魯が勢力を拡大しており、その脅威を恐れた劉璋は、同じ皇族である劉備へ援軍を要請します。

こうして劉備は張魯討伐を名目として益州へ入ることとなりました。

龐統の三つの献策&雒城攻防戦

益州へ入った当初、劉備は劉璋との約束を守り、葭萌関かぼうかんに駐屯していました。

 

しかし情勢が膠着すると、軍師・龐統は劉備へ三つの攻略案を提示します。

上策:精鋭で成都を急襲し、一気に決着をつける。
中策:白水関の楊懐・高沛を誘き寄せて討ち取り、徐々に益州を制圧する。
下策:荊州へ撤退し、情勢を見極める。

 

劉備は最も堅実な中策を採用しました。

帰還するように見せかけて楊懐・高沛を誘い出し、これを討ち取ることに成功します。

 

これを機に劉備は本格的な益州攻略へ踏み切りました。

 

 

劉備軍は順調に進軍しましたが、

益州側も厳顔・張任ら有力な将が奮戦し、戦況は次第に激しさを増していきます。

そんな中で、雒城攻略戦の最中、軍師龐統は流れ矢を受けて戦死しました。

建安19年(214年)のことです。

 

これは益州攻略最大の痛手となり、劉備は荊州へ援軍を要請します。

諸葛亮は張飛・趙雲らを率いて入蜀し、戦局は再び劉備側へ傾いていきました。

馬超の帰順と劉璋の降伏

同じ頃、漢中にいた馬超が劉備への帰順を申し出ます。

 

馬超は潼関の戦いで曹操を苦しめた名将として全国にその名が知られており、

とりわけ西方では絶大な名声を誇っていました。

 

馬超の参加は軍事力以上に心理的な影響が大きく、成都城内にも大きな動揺を与えたと記録されています。

これが劉璋の降伏を後押しした一因になったと考えられています。

 

ただ成都には十分な兵糧と守備兵を備えており、なお抵抗を続ける余力がありました。

しかし劉璋は、これ以上戦えば益州の民が苦しむだけであると判断します。

 

劉備の使者として訪れた簡雍が説得にあたると、劉璋は戦いを終わらせる決断を下しました。

これにより成都は開城され、劉備は益州全域を掌握します。

 

この瞬間、劉備は初めて曹操・孫権と並ぶ一大勢力となり、「天下三分」の構図が現実味を帯びることとなりました。

関羽と馬超 -名将同士の逸話-

益州平定後、馬超が厚遇されていることを知った関羽は、

その実力を諸葛亮へ尋ねる書簡を送りました。

 

諸葛亮は、

「孟起兼資文武、雄烈過人、一世之傑、黥・彭之徒、

當與益德並驅爭先、猶未及髯之絶倫逸羣也。」

(馬超(孟起)殿は文武兼備の英傑であり、黥布・彭越にも比肩し、

張飛(益德)殿と先頭を競い合うべき実力の持ち主ですが、髯(関羽)殿には及びません。)

と返書しています。

 

この返答を読んだ関羽は大いに満足し、

その手紙を賓客へ見せて回ったと「蜀志」馬超伝に記されています。

 

この逸話は、関羽の誇り高さと諸葛亮の巧みな人物掌握を象徴する有名なエピソードです。