張昭(ちょうしょう/子布)
張昭が若かりし頃、学問に打ち込み、多くの書物を読み漁り、
その才能は古老も舌を巻くほどだったと言います。
そして張昭の名前は、
天下に知られるようになります。
そんな張紹ですが、誰にも仕えず、
都からの呼び出しがあった際も応じませんでした。
ある時、陶謙から誘われると、これも断った張紹がですが、
これに腹を立てた陶謙によって捕らえられて投獄されてしまいます。
この頃の張紹は、
趙昱や王朗とも顔馴染みであったのですが、
その趙昱が必死に弁護して、張紹を救い出しています。
その後陶謙がこの世をさると、
捕らえられたことを恨みに思うどころか弔事を書いたそうです。
孫策に仕官
後漢の力が弱まり、群雄割拠の時代に入ってくると、
張昭は難を逃れるために、江南へ移り住みます。
そんな時に、孫策が挙兵するのですが、
孫策に誘われたことがきっかけで、孫策に仕官しています。
孫策は張昭を長史と撫軍中郎将を兼任させ、
内政だけで悪、軍事まで張紹に任せる程、孫策に信頼されていきます。
孫策は張昭に対して、
「斉の桓公は、管仲を重用した為に覇者となれた。
私には子布が仕えてくれているのだから、桓公の名声と比べても同等以上だ」
と言って最大限の誉め言葉を言っています。
孫策が戦に赴く際はというか、
生涯ほとんど戦争している孫策ですが、
張昭・張紘の片方に留守を任せ、もう片方には戦に同行させていたようです。
孫策が死去する直前、張昭と孫権を寝所に呼び寄せて、
張昭に孫権の補佐を頼んでいます。
そして、孫権には、
「内政の事は全て張昭に相談しろ!」と伝え、
張昭には、「孫権がもし君主の器でなければ、
子布が代わりに君主になって欲しい」と伝えて息を引き取っています。
そして張昭は、孫策の遺言を守って孫権を支え、
孫権に「張公」という尊称で呼ばれ、大変信頼されています。
2年後に孫策・孫権の母である呉夫人が死去する際にも、
孫策同様、孫権の事を張昭に託しています。
赤壁での明暗
蒼天航路(22巻95P)より画像引用
208年に曹操が攻めてくると、
張昭を筆頭にした降伏論と周瑜らを筆頭とする主戦派の間で、
毎日議論が行われて、なかなか判断がつかない状況が続いていました。
結果的に、孫権が戦う事を決断し、
赤壁の戦いで曹操軍を見事に打ち破る事に成功しますが、
この件で孫権と張紹の間で小さな亀裂が発生してしまいます。
赤壁の戦いで勝利に導いてくれた周瑜、
そしてその跡を任された魯粛に軍事の事は任せるようになりますが、
張昭は魯粛と馬が合わず、毛嫌いしていたようです。
その為魯粛を信頼しないようにいいますが、
孫権は張昭の言葉に耳を傾けず、魯粛を生涯信頼しました。
丞相になれず・・・
221年に孫権が呉王になると、
孫紹(そんしょう)・滕胤(とういん)・鄭礼(ていれい)と共に、
呉の儀礼制度の整備を行っています。
また丞相を誰に任命するかの話が上がった際に、
多くの者達が張昭を推しましたが、
孫権は張昭を丞相に任命する事はありませんでした。
結局丞相になったのは、孫邵(そんしょう)が任命され、
225年に孫邵が死去すると、その後任には顧雍(こよう)が任命されています。
ちなみに張昭を丞相に任命しなかった最初の理由は、
「丞相の仕事は大変すぎる」と言い、
二度目は、「張紹が気性が強くて、信念を曲げない事が多いため、
感情的になった際に、お互いの考えが行違う可能性がある為に任命できない」
といった理由からだったそうです。
赤壁の戦いがあってから、
孫権の中での張昭の評価が落ちてしまったのでしょう。
張昭への皮肉
229年、孫権が皇帝に即位すると、
孫権は「もし周瑜がいなければ今の自分は存在しなかった。
また魯粛は自分が皇帝になる姿が見えていたのだ」と二人を褒め称え、
続けて、「もし赤壁の時に、張公の降伏論を受け入れていたら、
今頃どうなっていたことか」と皮肉を込めて語ります。
これを聞いた張昭は大きく恥じ入って、
隠居してしまいます。
しかし、孫権の願いもあって復帰した張紹は、
輔呉将軍に任命されています。
復帰してからも、お互いの意見の相違から、
幾度となく喧嘩をしています。
その中でも公孫淵のことがきっかけで起こった
二人の大喧嘩では、孫権が最終的に張昭の家に放火するという事態まで発展しています。
そして張昭は、81歳でこの世を去ります。
張昭の遺言として、
「飾り気のない棺に入れて、普段着のまま葬って欲しい」と言い残し、
その遺言に従って葬儀が行われました。
その葬儀に参加した孫権は、普段着の格好で参加したようです。
赤壁の戦い以降、張昭の進言を聞き流すことが増えたのは、
やはり赤壁の降伏論に対して、孫権が根にもっていたのだと思います。
それでも最後まで張昭を用いたのは、
孫策の遺言が孫権の中でずっと残っていたからでしょう。
張昭の評価
東晋の歴史家である習鑿歯(しゅうさくし)は
「張昭は頑固過ぎた性格で、孫権が折れてもへそを曲げ続けたのは、
臣下の道を完全に踏み外している行為だ」と強く批判しています。
また正史を書いた陳寿は、
「張昭は勲功を立派に立て、
真心をもって国の為に尽くし、正道を貫いた。
ただ残念なことは、厳格な性格がわざわいして、孫権に煙たがられてしまった。
そして丞相だけでなく、師保(皇帝の顧問)にすら任命されていない。
張昭を活かせなかった点においては、孫権は孫策の足元にも及ばない」と評価しています。