「三国志演義」には、諸葛亮の神がかり的な知恵・行動などが要所要所に詰め込まれている作品ですが、

郭沖によって三国志演義の参考にされた話が残っていたりします。

 

タイトルにもあった司馬懿との対決で描かれた「空城の計」もその一つですね。

郭沖(かくちゅう)

郭沖がいつ生まれていつ死んだのかなどの正確な事は分からないですが、

涼州金城郡の出身で、魏・晋に仕えた人物になります。

 

 

郭沖は内に輝くモノを秘めていたけれども、

外見がよくなかったらしく、

 

それが原因で郭沖が高く評価されることはありませんでした。

 

 

曹丕が蜀から降った孟達を一目見て気に入ったのも外見が良かったからであり、

外見がすべてではないけれども、良いにこしたことはなかったでしょう。

 

それは今の時代でも言える事ですしね。

 

 

ただ杜畿ときという人物は郭沖の事を高く評価していますけどね。

その逸話は次のようなものです。

 

杜畿と仲が良かった郭沖の父親である郭智と李豊の父親である李義と非常に仲が良かったらしく、

そういう関係から息子の郭沖と李豊が杜畿を訪ねてきたことがあったようです。

 

 

李豊は非常に評判の良い人物でしたが、杜畿が二人に下した評価は、

 

「李豊はいつか家を潰すだろう。

一方の郭沖は父親の跡を十分に継ぐ素質を兼ね備えている!」

というものでした。

 

 

軽く補足しておくと、

李豊は蜀に仕えた李厳(李平)の息子の李豊とは同姓同名なだけで完全に別人です。

案外知られていない同姓同名の三人の李豊(仲・魏・蜀)

 

 

後に李豊は司馬師排除を試みますが失敗に終わり、

三族にわたって連座の罪で処刑されてしまいます。

 

 

一方の郭沖代郡太守に任じられ、父親の跡を立派に継いだのでした。

 

まさに杜畿が言った通りになったのです。

諸葛亮に高い評価を与えた郭沖

時代は既に晋の時代に入っていましたが、

司馬懿の六男であり、非常に才能豊かであった司馬駿という息子がいました。

 

司馬駿が関中(長安付近一帯)の守備を任されていた際、

劉宝らを呼んで諸葛亮について語ることがあったそうです。

 

この時に「諸葛亮は大した能力もないくせに、

大事を成し遂げようとしている。

 

その結果、民衆に多大な負担を与えてしまっただけだった!」

と酷評する者が多かったわけです。

 

 

そこで諸葛亮を擁護したのが郭沖だったのです。

 

諸葛亮の才能は、

かつて斉の名宰相と言われた管仲・晏嬰よりも高いにも関わらず、

 

諸葛亮が結果を残せなかったばかりに、

多くの者達は間違った評価をしているにすぎない!

といったように諸葛亮に対して大きな評価を与えたのでした。

 

 

そして郭沖は、諸葛亮の凄さを物語る五つの話を持ち出したわけです。

これに対して、誰も反論できなかったといいます。

 

 

 

ちなみに三国志に注を加えた裴松之も諸葛亮が好きな人物の一人ですが、

 

事実以上に高い評価を与える事は許せないといった人物でもあり、

郭沖の五つの話を全てでっち上げだとけなしまくってますね。

 

 

次に郭沖のあげた五つの話と共に、

裴松之が「でっち上げだ!」と言った理由も添えて紹介したいと思います。

諸葛亮の功績を称えた五つの話(一話目)

劉備が益州の劉璋を降して益州を手に入れると、

法正は秦の厳しい法を緩めた劉邦の例を出して、それを見習うべきだと諸葛亮に進言します。

 

これに対して諸葛亮は、

「劉璋の統治時代はやりたい放題であったから、

逆にきちんと法を定めて引き締めないといけない」といって法正の進言を退けたという話です。

 

 

この話について裴松之は、

「こういったことは諸葛亮が判断するものではなく、

劉備が考えるべきことである!

 

何より諸葛亮がでしゃばってこんな事をいうはずがない!!」と批判していますね。

 

 

ただこれは劉備を支える中で中心的な役割を担っていた法正・諸葛亮ならば、

劉備がいない所で話すことは普通にあると思いますけどね。

 

後はまとまった案を劉備に知らせて、

最終的に許可を出す・出さないの判断を劉備がすればいいわけですから・・・

諸葛亮の功績を称えた五つの話(二話目)

ある時に劉備に対して、曹操が刺客を送ったことがありました。

 

刺客は劉備と対面し、二人は魏討伐の計画を話し合ったといいます。

刺客も劉備に疑われないように理に適った戦略を出したのでしょう。

 

 

劉備はこの人物が只者でないと感じ取るも、

刺客は劉備を殺害するチャンスを密かに狙っていたのでした。

 

そこに諸葛亮がやってきたのですが、

刺客は次第に顔色が悪くなり、厠へと席をたって部屋を出ていったわけです。

 

 

劉備は諸葛亮に対して、

「今厠に席を立った人物は大人物で間違いない!

貴方を見事に補佐してくれること間違いなしだ!!」と刺客を褒め称えたのでした。

 

 

しかし諸葛亮はその人物が良からぬ事を考えていると見抜き、

「おそらく曹操が放った刺客でしょう」と劉備に告げたわけです。

 

劉備は刺客を捕らえようとするも、既に刺客は逃げ去った後だったという話ですね。

 

 

これは劉備と劉平の話と少し似てる気がします。

 

簡単に紹介すると、

劉平から刺客を送られた劉備ですが、劉備はその刺客を厚くもてなし、

 

刺客は劉備を殺すにしのびなくなったといった話ですね。

 

 

話を戻して、この話に対しての裴松之の考えは、

「劉備は人を見る目に長けた人物である。

劉備が大人物だといえば大人物だったのであろう!

 

曹操は才ある者を愛する人物であり、

そんな優れた人物を刺客として送るなど考えられない!!」

と言って否定しています。

諸葛亮の功績を称えた五つの話(三話目)

横山光輝三国志(52巻168P)より画像引用

 

諸葛亮が魏延に大軍を率いて先鋒を務めさせ、

諸葛亮が後方(陽平)を1万の兵士と共にまもっていたときのことでした。

 

司馬懿は諸葛亮が1万人の兵士のみで守っていることを知り、

二十万の兵士を率いて陽平に兵を進めます。

 

 

司馬懿が大軍を率いてやってくるという情報を耳にした諸葛亮は、

今からだと魏延の援軍は間に合わないと冷静に判断し、

 

考えた末に諸葛亮が行ったのが、

わざと城門を開いて司馬懿を待ち受けることでした。

 

 

この様子を見た司馬懿は、これには何か罠があると判断し、

戦わずして退却したというものですね。

 

「空城の計」が三国志演義に採用されたのは、

この郭沖の話が元となっているのです。

 

案外知られてないんですけどね。

 

 

基本的に三国志演義の創作だと言われていますけど、

正史にこの逸話が残っていることからも、実際本当にあった話かもしれませんね。

 

 

ただこれが創作だと言われているのには理由があって、

それが裴松之の否定なんですよね。

 

その理由とは、諸葛亮は長安急襲の際に魏延の考えを一度退けていたからですね。

「そんな魏延に大軍を任せるわけないだろう!」というのがまず諸葛亮側の理由でした。

 

 

また司馬懿側からの理由で、

「諸葛亮が少ない兵士で守っている情報を掴み、

二十万もの兵士を動員しているのに、

 

城門が開いているからといって攻めないのはおかしすぎる!

 

怪しんだとしても戦わずに撤退などはありえない!!」というものですね。

 

 

実はそれだけでなく三つ目の理由もあり、

 

「司馬懿の息子である司馬駿の前で、

父親が諸葛亮に翻弄された逸話を話すことがおかしい!」

ということの三つの視点からの否定でした。

空城の計

諸葛亮の功績を称えた五つの話(四話目)

諸葛亮が祁山に出陣した際に姜維を味方につけ、

隴西の数千人の民を漢中へ連れて帰ることに成功したわけですが、

 

これに対して蜀の者達は、諸葛亮にお祝いを述べたといいます。

 

 

諸葛亮は「たったこれだけのことで、

皆にお祝いされるのは恥ずかしいものだ・・・」とつぶやき、

 

それを聞いた者達は、

魏を滅ぼす決意が固いことを改めて認識したというものです。

 

 

もう恒例ですが、裴松之はこの話も当たり前のように否定しています。

 

今回の理由は、

「諸葛亮は北伐に向かう際に「出師の表」を上奏している。

 

祁山の戦いで新たな領地を獲得したわけでもないし、

姜維や数千人の民衆を連れ帰った程度で祝うことがそもそもおかしな話だ!」といった感じですね。

諸葛亮の功績を称えた五つの話(五話目)

横山光輝三国志(57巻15P)より画像引用

 

諸葛亮が再び祁山へと出兵した際に、曹叡自身は長安まで出てきており、

 

諸葛亮を迎え撃った司馬懿は、

張郃に命じて蜀の背後を襲う目的で剣閣へと向かわせたそうです。

 

 

諸葛亮は前回の反省を活かし、簡単に魏を倒すことは難しいと考え、

長期戦の構えで、兵士を交代で任務に就かせていました。

 

片方は魏との戦いに望み、一定の期間ごとに一旦帰還させて休養をとらせるといったもので、

張郃が剣閣に向けて兵を進めていた時に丁度交代の時期が回ってきます。

 

 

これを聞いた側近は、

「事態が事態なので今は帰還させるべきではない。

せめて帰還を一カ月停止させて全軍で戦うのがよい!」と諸葛亮に言うものの、

 

諸葛亮は「もう帰宅準備をしている者達も多い。

また妻子は旦那の帰りを今か今かと待っているはずだ!

 

目の前に困難が押し寄せてきたとしても約束を破ってはいけない!!」と言って、

兵士達には予定通り帰還するようにと命じたのです。

 

 

これに感激した兵士達は諸葛亮と共に戦う事を望み、

見事に張郃を討ち取るまでの結果を出したという感じですね。

 

 

これに対する裴松之の否定は次のような理由です。

 

これは第四次北伐の話ですが、

「曹叡が長安へ来たのは、

第一次北伐の際だけであり再度来たというのはおかしい。

 

そもそも張郃に剣閣を攻めさせようとしたとあるけれども、

諸葛亮の大軍に気づかれずに漢中を通って剣閣まで行くなんてそもそも不可能である!

 

他にも諸葛亮は基本的に短期決戦を基本としているのに、

兵を分けて長期戦の構えをみせていることもそもそもおかしい話だ!!」といったものでした。

「三国志演義」を更に面白くしたのは郭沖と裴松之のお陰である

裴松之は郭沖の五つの話を全て否定したわけですが、

そもそも裴松之は諸葛亮が死んでから100年以上後の人物であり、

 

郭沖の話は陳寿によって著された「三国志(正史)」にきちんと収められている話です。

 

 

確かに裴松之が言っていることで納得できる点も多々ありますが、

陳寿が嘘の話をわざわざ正史に残したというのも疑問が残る点でもあります。

 

 

ただ郭沖の話が正史に残っているのも事実であり、

 

郭沖の話を裴松之が全力で批判したことで逆に大きな注目を浴び、

「三国志演義」に三つの話が織り込まれたということですね。

 

 

言わないでも分かる人は多いと思いますが、

三国志演義で採用された話は次の三つになりますね。

  • 1話目の諸葛亮と法正の逸話
  • 3話目の空城の計の逸話
  • 5話目の諸葛亮の心意気に答えた兵士達の逸話

 

この三つの話が三国志演義に取り入れられたことで、

「三国志演義」が更に面白いものとして出来上がったことは間違いありません。