劉備と諸葛亮の「三顧の礼」は、

三国志を代表する有名な逸話の一つです。

 

 

簡単に「三顧の礼」のことを説明すると、

年上で立場も高い劉備が、年下で立場も低い諸葛亮を三度訪れ、

 

それに深く感銘を受けた諸葛亮が劉備に仕えたというものになります。

 

諸葛亮が劉備に仕えてからというもの、劉備は三国の一角である益州を手に入れ、

皇帝にまで上り詰めることに成功しています。

 

 

このように目上の者が目下の人間に対して礼を尽くすことを

「三顧の礼」と一般的に呼ばれています。

 

三顧の礼については「三顧の礼」の記事で詳しく書いているので、

興味がある方は下記事を御覧ください。

三顧の礼(劉備&諸葛亮)

「蜀志」諸葛亮伝の注釈にある「魏略」

ただ実は劉備が諸葛亮の草庵を三度訪問する逸話ではなく、

「諸葛亮自らが劉備に会いに行った」という話があります。

 

「どうせ民間伝承とかのお話でしょう!?」

と思われる方もいるかもしれませんが、これは正史に記載が残されている話になります。

 

正確には、裴松之が注釈を加えた「魏略」の中にある話です。

 

 

陳寿の「三国志」の内容が簡潔すぎる事により、非常に薄っぺらい内容になっているので、

裴松之はそれに肉付けする形で、可能性のある逸話を沢山盛り込んでいます。

 

 

実際はそのお陰で、三国志の話に重厚感がましてるのも事実ですが、

信憑性の薄い話から高い話まで色々な注釈が加えられている感じになっています。

 

ただその上で裴松之が自分の意見もきちんと書いてる感じです。

「こういう逸話があるけれども信憑性は薄い」とかいったように・・・

 

 

ちなみに張飛の妻である夏侯氏(劉禅に嫁いだ二姉妹の母親)の話なども、

夏侯淵伝の注釈に書かれてある内容で、「魏略」に書かれてある話なのは余談です。

 

つまり魚豢が著した「魏略」がなければ、

夏侯氏の存在も実は詳細不明の女性になっていたことになるわけです。

 

それは延長線上で、

夏侯覇と劉禅との繋がりすらなかったものにするほどで・・・

劉備が諸葛亮を知った二つの情報筋

劉備が諸葛亮を知った経緯の逸話は、

徐庶からの情報筋と司馬徽からの情報筋との二つがあります。

 

三国志演義をベースにしている横山光輝三国志などでは、

劉備が諸葛亮を知った経緯がまとめて記載されているわけですが・・・

 

 

どちらも有名な話ですが、陳寿の三国志正史を基準に見た場合は、

徐庶の情報筋が一般的な話だと思います。

 

なぜなら正史の諸葛亮伝に記載されている劉備と徐庶の逸話が、

次のように普通に記載されているからです。

劉備と徐庶の逸話

横山光輝三国志(21巻72・73P)より画像引用

劉備は徐庶と出会って会話すると、徐庶を高く評価した。

 

 

その中で徐庶が諸葛亮という伏龍がいるけれども、

会いたいかどうかという質問をすると、

 

劉備が会う事を希望したのが諸葛亮を知ったきっかけになりますね。

 

 

その際に劉備は徐庶に諸葛亮を呼んでくれるように頼むも、

 

徐庶は「劉備殿自ら会いに行かなければ、会う事もできないでしょう」と言った事で、

劉備が諸葛亮を訪ね、三度目に諸葛亮と出会う事ができたという流れです。

劉備と司馬徽の逸話

横山光輝三国志(20巻123P)より画像引用

 

もう一つの司馬徽の話は、

「蜀志」諸葛亮伝の注釈に加えられているのですが、

 

もともと「襄陽記」からの情報になります。

 

「襄陽記」を簡単に言ってしまえば、

東晋の歴史家である習鑿歯が編纂した襄陽郡の地方志になります。

 

ちなみに「三国志」もそうですが、「志」というのは記録という意味がありますね。

 

つまり「襄陽記」は襄陽郡の地方の記録のことで、

襄陽郡と関係があった者達の事も沢山記載されていたりします。

 

 

ある時に劉備は名士として知られた司馬徽を訪ねますが、

司馬徽は別名「水鏡先生」と呼ばれていました。

 

劉備は司馬徽に自分の今後について相談するわけですが、

「儒者や俗人がどうしてその問いに答えることができようか・・・

答えることができるものは俊傑な者だけである。

 

ただこの地には、伏龍・鳳雛に例えらた高い才能を持った者達がいる」

と返答したのでした。

 

そして劉備がその伏龍・鳳雛に例えられる人物を尋ねると、

司馬徽は伏龍が諸葛亮で、鳳雛が龐統である事を劉備に教えています。

 

そこからの「三顧の礼」の流れという感じですね。

 

 

ちなみにですけど、そもそも水鏡・伏龍・鳳雛の名付け親は

 

人物鑑定の大家でもあり、

龐統の叔父である龐徳公によって付けられた名称だったりするのは余談です。

「魏略」に記載される諸葛亮が自ら赴いた逸話

諸葛亮伝に注釈が加えられている「魏略」の内容は次のものになります。

 

〈「魏略」の内容〉

劉備は樊城に駐屯していた。

曹操は河北を平定し、次に目指すは荊州であろうと諸葛亮は考えた。

 

しかし劉表では曹操を防ぐことができなと考えた諸葛亮は、北行して劉備に会いに行った。

 

 

ただ劉備と諸葛亮は面識もなく、諸葛亮も若かった事で、

劉備は他の者達と語り合うだけで、諸葛亮を気に留める事がなかった。

 

そんな中で集会が終わると、来客が次々と去っていったが、

諸葛亮一人はその場所に留まり続けたのである。

 

それでも劉備が諸葛亮に声をかけることはなく、劉備は髦牛の尾を編んで毛飾りを作っていた。

 

諸葛亮はそんな劉備に歩み寄り、

「将軍には高い志があって当然だと思いましたが、

毛飾りを作られるだけなのですか!?」

と問いかけると、劉備は諸葛亮が只者ではない事に気づき、驚いて毛飾りを投げ捨てたのである。

 

そして二人の会話が続いた。

劉「何をおっしゃいますか。

これは憂さ晴らしをしていただけのことです。」

 

諸「ちなみに将軍は、

劉表殿と曹操殿はどちらの方が力があると思われますか?」

 

劉「劉表殿では曹操殿にはかなうまい」

 

諸「ならば将軍と曹操殿ならどうだと思われますか?」

 

劉「私も及ばない」

 

諸「曹操殿には劉表殿も将軍も及ばない。

またそれだけでなく、将軍の兵力は数千人に過ぎず、

この状態で曹操殿がやってくるのを待つのは得策ではありません。」

 

劉「ならばどうしたらよいだろうか!?」

 

諸「現在荊州に人がいないわけではなく、

多くが戸籍登録されていないだけなのです。

 

そこで戸籍を整備し直し、正確な人口数を把握すれば、

それに基づいて徴兵が可能になります。」

 

 

これを聞いた劉備は喜んで、諸葛亮の進言を実行に移し、

それにより劉備の軍勢は強化されたのであった。

 

諸葛亮が優れた人物だと分かった劉備は、上客として厚遇したのである。

 

 

ちなみに西晋の司馬彪の著した「九州春秋」にも、

同じ逸話が書かれてあるとも補足がかかれてありますね。

 

また裴松之は「魏略」の内容を加えながらも、

「『出師表』でも劉備が諸葛亮を三度訪問したことが描かれてあるので、

『魏略』の内容が事実でないのは明白である」と言ってますね。