三国志の主人公といって、真っ先に名があがる人物は曹操ではなく、
今回紹介する劉備かもしれませんね。
正史的論点から言うと間違いなく曹操が主人公たる立ち位置にいるわけですが、
三国志演義の影響もあってか、
劉備が三国志の主人公と認識してる人が非常に多い現状ですね。
弱者(劉備)が強者(曹操)に対抗する様子に、
胸を打たれるのが人間の性だったりしますし、
諸葛亮の人気から劉備人気に繋がっているというのも一つの理由かもしれませんね。
劉備と諸葛亮の関係を「水魚の交わり」と言ったように、
二人は切っても切り離せない関係にありますから・・・
目次
若かりし頃の劉備(りゅうび/玄徳)
161年にこの世に生を受けた劉備は、
若かりし頃に盧植の元で学問を学んだといいます。
この時に偶然にも出会ったのが、
公孫瓚だったり・・・
ちなみに貧しい生活を送っていた劉備が
盧植のような有名な先生の元で学べたかというと、
劉備の一族であった劉元起の支援によるところが大きかったですね。
劉元起は実子であった劉徳然と同様の待遇で、
劉備の学費を全て出してあげています。
それに不満を述べたのが当たり前のように劉元起の妻だったりするのですが、
「我々の一族の中で、
玄徳ほど優れた人物は他にいない!
将来大きな人物になる可能性が高いのだから何も言うでない!!」
とまで劉元起に言わしめたそうです。
他にも劉備が「刎頸の友」と呼んだという逸話が、
現在にも残っている牽招もこの頃に出会ってますね。
ちなみにそんな逸話の残っている牽招ですが、
息子の牽弘は鄧艾らと共に、
後に劉備が建国した蜀漢を滅ぼした一人であるというのは完全に余談です。
話を盧植の弟子であった頃に戻しますが、
劉備は学ぶことが嫌いだったという完全に劉元起泣かせでもあったわけでして・・・
そもそも劉備は馬に乗ったり、音楽を聞いたりすることが好きだったようで、
見栄えが良い服を好んで着ていたといいます。
ただ成長するにつれ、嫌いだった勉学にも励み、
文武に優れた人物に成長していったのでした。
また漢気(任侠精神)があったことから周りからかなり慕われていたようですね。
成人した劉備の身長は、
七尺五寸(172.5cm)ほどあったようで、
特に腕が非常に長く、
大きな耳(福耳)を持っていたというのは有名な話ですね。
関羽&張飛との運命の出会い
中山の豪商であった張世平・蘇双が、
「劉備を見て只者ではない!」
と判断して多額のお金を援助してくれます。
劉備はこのお陰で兵を募ることができるようになり、
義勇軍を結成!!
劉備が義勇軍を結成した理由は、
もちろん黄巾賊討伐の為です。
そしてお金で雇われた人物に関羽や張飛がいたわけで、
二人以外にも後に劉璋を降伏させた簡雍もこの時から劉備に付き従ってますね。
他にも若かった田豫もこの時劉備の義勇軍に参加しています。
この時の田豫は、めちゃくちゃ幼かった時期ですけど・・・
「田豫って誰!?」と思った方もいるかもしれませんが、
後に魏で活躍する名将だったします。
関羽・張飛・簡雍などは、
劉備と親友のような関係になっていったことからも、
もし田豫が最後の最後まで劉備に付き従っていたならば、
張飛・関羽と同じような関係になっていた可能性はあったかなと思いますね。
官位を貰っては捨て・・・
皇甫嵩・朱儁・盧植らの活躍によって、
黄巾の乱が鎮圧されると、
劉備も黄巾の乱討伐の手柄から、
「中山国安熹県の尉」に任じられていますね。
劉備は少人数を引き連れて安熹県へと赴任するわけですが、
督郵が安熹県の視察に訪れた時に自体は一変します。
劉備は督郵への面会を希望したようですが、
督郵は見事にスルー・・・
これに怒りを覚えた劉備は、
督郵を木に縛り上げて殴りまくるわけです。
三国志演義では張飛が督郵を殴っているので勘違いしている人もいますけど、
実際に督郵を殴りまくったのは劉備ですね。
こんなことがあったので劉備は官位を捨てて逃亡することとなります。
その後の劉備は官位を頂いては捨ての繰り返しで、
地方を放浪するわけですが、
その後は盧植に師事してた際に知り合っていた公孫瓚を頼っていくことに・・・
公孫瓚は劉備を別部司馬に任命し、手厚く迎えてています。
流浪の末に徐州牧へ
袁紹・袁術の関係が次第に悪化していくと、
公孫瓚は袁術と同盟を結び、袁紹と対立していくこととなります。
それに伴って劉備も自然と袁紹と対立していくわけで・・・
公孫瓚の元を訪ねてから二年の月日が経った193年、
徐州を治める陶謙が曹操に攻められる事態になった際に、
劉備が援軍として駆けつけることとなります。
曹操は色々あって徐州から撤退するんですが、
陶謙は劉備を大変気に入り、豫州刺史に推挙しています。
ちなみにこのタイミングで旗揚げ時から共にしていた田豫が
年を取った母の為に帰郷することになったのですけど、
「貴方と共に大事を成せないのは残念だ!」
と劉備が涙を流して別れを惜しんだ逸話があったり・・・
この時の田豫は物凄く若い年齢だったにもかかわらず、
「劉備の人を見る目はさすがだ!」といわんばかりに活躍していくこととなりますね。
その後に陶謙が病で亡くなると、
陶謙の遺言によってあっさりと徐州牧を手に入れてしまう事に・・・
ちなみに後に趙雲に次ぐ程の人物で、
白耳兵という蜀の精鋭を率いる長を任された陳到も、この時に劉備に仕えていたりしますし、
他にも魏の重臣として活躍することになる陳羣や陳登も、
この時に劉備に仕えることになっていますね。
呂布に翻弄された劉備
徐州を継いだ劉備の元に、
曹操に敗れた呂布が落ち延びてきます。
呂布といえば義父であった丁原・董卓を殺した事で有名ですが、
武力に秀でた人物としても名が馳せていました。
良い言い方をすれば二刀流、悪い言い方をすれば諸刃の剣だったわけですね。
多くの者達は呂布を引き入れる事を反対していますが、
劉備はそれらの言葉を退けて、呂布を味方として引き入れています。
しかし周りが心配したように呂布が裏切り、
曹豹が呂布を引き入れたことで、劉備は徐州を奪われてしまう事に・・・
ただ劉備は裏切った呂布と和解する道を選ぶという不思議な展開になり、
本来自分の城のはずが、
呂布から命じられて小沛城を任される形になるのですからね。
ただ劉備が兵を増やしたことを怪しんだ呂布は、
小沛城を襲って劉備を追い払ってしまいます。
呂布から追い出された劉備はというと、
敵対していた曹操の元に落ち延びていくこととなるわけです。
ちなみに曹操はというと、劉備との過去の因縁を捨てて手厚く迎えていますね。
呂布の討伐&最後
曹操の元に落ち延びた劉備ですが、
曹操と共に呂布討伐に乗り出すこととなります。
結果は曹操の勝利で幕を下ろし、
呂布は曹操に捕らえられることに・・・
「曹操殿が歩兵の指揮し、私が騎兵の指揮すれば、
天下は簡単に平定できるぞ!!」
と命乞いの為に自分を売り出すと、曹操の気持ちは大きく揺らぎます。
呂布が魅力的な才能の持ち主であったことは間違いないですし、
優れた人物を好む曹操としては悩んで当たり前なわけで・・・
ここで呂布を許す事に反対したのが劉備でした。
「「過去に二度も義父を殺した」
という事実を忘れてはいけない!」と・・・
これに対して
「お前こそが最も信用できない人間だぞ!」
と罵るものの曹操は聞く耳持たず・・・
曹操は劉備の言葉を採用し、呂布を処刑したことでこの戦いに決着がついたのでした。
曹操に高く評価された劉備
横山光輝三国志(15巻112・113P)より画像引用
曹操の世話になっていた劉備ですが、
曹操は劉備を高く評価していました。
「世の中の英雄は私と君だけだ!!」
って曹操が言った話ですね。
「三国志演義」にも採用されていることからも、
ほとんどの人が知ってる話なんじゃないかなと思います。
それ以外にも曹操が劉備を高く評価した話は残っており、
「劉備と私は同等ともいえる存在だ!
ただ私より劉備の方が作戦を考えるのが、
少しだけ遅いだけである!!」
と自分の方が上だとは言いながらも劉備を高く評価した話が、
「山陽公載記」に残ってたりします。
曹操暗殺計画
曹操の操り人形になっていたことに嫌気が指していた帝(劉協)は、
曹操殺害計画を董承へと任せたのでした。
そして劉備は董承の誘いに応じて暗殺計画へと加担することに・・・
しかし危険を察した劉備は、袁術討伐という名目で、
曹操の元から遠ざかることに成功!
この頃の袁術の力は大きく衰退しており、
敵対していた同族の袁紹との合流を目指すものの、
劉備の出陣によって邪魔されただけでなく、袁術は病死してしまいます。
「はちみつが舐めたい」という言葉を残して・・・
ちなみに曹操暗殺計画は後に発覚して
董承はじめ加担した多くの者達が処刑されることになるのですが、
劉備はこの時に曹操の元を離れていたので、その難から逃れることができたのでした。
時期的には、劉備が袁紹の世話になっていた頃になりますね。
劉備の独立からのあっさり失敗!!
劉備は曹操が滞在している許昌に戻るのは危険と考え、
かつて治めた地である、
徐州で曹操から独立!!!
これに怒りを表したのがいわずもがな曹操ですね。
結果はコテンパンにやられたのは言うまでもないです。
この戦いで関羽は曹操に降り、
劉備は袁紹の元へと逃亡し、張飛含め他の臣下らは行方知れず・・・
と完全にばらばらになってしまったのでした。
ただ張飛が劉備と共に袁紹の元へと赴いたといったような話もあったりします。
このあたりの資料が明らかに不足している為、実際張飛の動向は結構あやふやなんですよね。
山賊に身を落として隠れていたみたいな話もあるわけで・・・
簡雍や麋竺が徐州陥落の際に、
どうしていたかなんてのも実際不明ですしね。
白馬・官渡の戦いに際しての劉備の立ち位置
袁紹が曹操を駆逐する為に曹操領へと侵攻を開始します。
二人は白馬・官渡で戦う事になるわけですが、
状況は劉備の弟分である関羽が曹操に仕えていたことから、
袁紹軍の猛将である顔良が関羽に討ち取られ・・・
もう一人の猛将であった文醜も曹操の罠にはまって討死!
袁紹は劣勢みたいな雰囲気を出しつつも、
圧倒的兵力から曹操軍に対して優位に展開していたのも事実であり、
なんとか戦いを優位に運ぶべく、劉辟が汝南で反乱を起こした際に、
劉備を助っ人として送っていますね。
劉備は他にも龔都ら賊とも手を結んで汝南で暴れるものの、
袁紹が官渡で惨敗を喫する結果になると、
「これ以上は戦っても結果は見えている!」と判断し、
荊州へと落ち延びていくことになったのでした。
簡単に言うと、劉備逃亡しーの、劉辟討たれりーの、
龔都のその後の行方は分からないーのみたいな感じですかね。