後漢・三国時代の行政区分

三国志を見ていると、

州牧だの県令だの色々な役人が出てきますが、

「あまりよく分からないなぁ」という人も結構いたりします。

 

そこで今回は、そのあたりを分かりやすく説明していきたいと思います。

州・郡・県

この時代の行政区分は、

まず大きく13の「州」で振り分けられていました。

 

この13の「州」は、それぞれに独立性が強いのが特徴です。

後漢末期・三国時代は、13州から14州に増えています。

 

現在のアメリカでもこの州制度が取り入れられているので、

アメリカの制度を想像すると少しは分かりやすいかと思います。

 

 

この14州のうち10州を魏が支配しており、

残りの4州のうち、呉が2州、蜀が1州支配していました。

そして魏呉蜀で争った荊州をいれて14州になります。

 

  • 魏(司州・兗州・青州・徐州・冀州・并州・幽州・豫洲・雍州・涼州)
  • 呉(揚州・交州)
  • 蜀(益州)

 

こう考えると、重要な土地を沢山支配していた魏が、

呉蜀に比べていかに圧倒的だったか分かりますね。

郡と県

後漢末期・三国時代には、14の州がありましたが、

この14州の個々を更に分けたのが「郡」になります。

 

ようは1つの州の中に沢山の郡があるわけです。

そしてその1つの郡の中に沢山の「県」があります。

 

「県」より「郡」の方が大きいので、日本の都道府県とは真逆になります。

州・郡・県の行政官

州の行政官(刺史&牧)

州・郡・県にはそれぞれ行政官がいます。

 

州を監視している人達のことを「刺史」と呼んでいました。

しかし霊帝の時代に、地方の支配力が弱くなったのを理由に、「州刺史」から「州牧」に変更されます。

 

 

ちなみに「刺史」は、

州を監視するだけの役割で地位も低かったですが、

 

「州牧」は州を監視するだけでなく、

州を支配する権限も与えられ、刺史よりも地位が向上します。

この州牧への変更を提案したのが劉焉です。

 

ただし、州牧に変更後も、

刺史の制度も引き続き任命されていたので、

州によって「刺史」と「牧」の二人が存在したりしていました。

 

三国時代に伸し上がっていった多くの群雄は、州牧を経験しています。

それを足掛かりに独立への一歩を踏み出していったわけです。

郡の行政官

郡の行政官は、一般的に「太守」と呼ばれる人達です。

太守に任命された人達は、軍事・民生・司法等を任されており、

刺史よりも地位は高かったのです。

 

州の中の一つの郡の太守の方が地位が高いという点から見ても、

刺史の地位がどれだけ低かったかが伺えます。

県の行政官

郡を更に分けたのを「県」といいますが、

 

その中で大きい県を任されていたのが県令で、

小さい県を任されたのが県長でした。

州・郡・県それぞれが皇帝直属である

 

州・郡・県の中で一番偉いのが州で、

二番目が郡で、三番目が県というふうに思うかもしれませんが、

どちらが偉いとかはありません。

 

全てが皇帝から直接任命され、

ピラミッド型であるように見えて、個々が完全に独立しているのです。

その為、お互いに監視する役目もあったわけです。

 

 

しかし後漢時代、互いに監視してきた結果、

悪事であったりを賄賂でもみ消したりする輩が現れてき、

世の中は乱れていってしまうのです。