呉夫人(ごふじん/呉氏)は、「呉夫人なくして呉なし」
と言ってもいいほどに、呉にとって大事な立ち位置にいた女性であり、
孫堅・孫策・孫権という時代の英雄達を陰ながら支え続けた女性でもあります。
ちなみに三国志演義で、
呉国太(ごこくたい)という孫堅の第二夫人になった女性がいますが、
呉国太は、呉夫人の妹という設定になっていますね。
実際は、呉国太という人物は存在していません。
少しだけ話がずれましたが、
ここでは呉夫人について見ていきたいと思います。
呉夫人(ごふじん)と孫堅
呉夫人は呉惴の子として生まれますが、
まだ呉夫人が幼かった時、父であった呉惴と母を亡くしています。
その為に苦労も多かったようですが、呉夫人は賢く美しい女性へと成長していきました。
ある時に呉夫人のことを知った孫堅が、
呉夫人を結婚を申し込むも、親戚から大反対にあってしまいます。
「どこの馬の骨とも分からないような男に嫁がせるわけにはいかん」
みたいな感じだったのでしょう。
この時、呉夫人は反対する親戚らに対して、
「私が嫁ぐのは運命であり、例え死ぬようなことになってしまってもそれも運命なのです」
と言うと、親戚らも結婚を許したそうです。
呉夫人は孫堅の正妻として迎え入れられ、
孫堅の愛情を受けて過ごし、孫策・孫権・孫翊、孫匡らを授かりました。
191年、孫堅が劉表との戦いに敗れて死亡すると、
呉夫人は、一人で残された孫策・孫権ら子供達を厳しく育て上げたそうです。
捜神記
「捜神記」というとんどもない話ばかり掲載されているものがあるんですが、
そこには呉夫人が孫策と孫権を身籠った時の話が載っています。
呉夫人は孫策を身籠ると、「月が懐に入ってきた」という夢を、
孫権を身籠った時には、「太陽が懐に入ってきた」という夢を見たそうです。
その事を孫堅に伝えると、
「太陽と月は表裏一体で、この世で最も貴いものだ。
これは自分の子孫が栄えるというお告げだろう」と言って喜んでいます。
孫策を母として支えた呉夫人
孫策が成長すると、破竹の勢いで江東を制圧に乗り出していくわけですが、
孫策に反抗した者達は徹底的に処刑されていました。
孫策が処刑しようとした者の中の一人に、
孫堅の時には家族ぐるみで付き合っていた王晟がいました。
もちろん呉夫人とも関係があった人物です。
しかし孫策は、反抗した王晟を当たり前のように処刑しようとします。
王晟が処刑されようとしている事を聞いた呉夫人は、
「お前の父と仲良くしていた王晟殿でも平気で処刑できるのですか?
王晟殿の子供たちは既に亡くなっている。
そして王晟殿も高齢。
孫策、お前は何をそんなに恐れているんだい? 見逃してやっておくれ。」
と誰であってもお構いなしの孫策を諫めるとともに、王晟のフォローもしています。
孫策の母であった呉夫人の言葉を聞いた孫策は、王晟を見逃してあげたそうです。
またある時、孫策の臣下の一人が、
ちょっとしたミスをした事で処刑されそうになったことがありました。
この時も呉夫人が孫策に対して、
「お前はまだ江南に勢力を拡大したばかり。
そんな時に一生懸命に仕えてくれている臣下を処刑して何になるんだい!?
人材が大事な時だからこそ、優秀な者達を厚遇し、
彼らが犯したミスは目をつぶってあげることが大事だよ。
もしここで臣下のミスを許さずに処刑してしまえば、
誰もあなたに着いてくる者はいなくなっていくだろうね。
もし今私が言っている事がお前に分からないのならば、
お前の母として、目の前にある井戸に飛び込んで命を絶とうと思う」
これを聞いた孫策はびっくりして、ミスを犯した者を許してあげています。
呉夫人は、子である孫策の考えを大半は尊重してあげ、
その上で誤った道に行こうとした時にだけこのように身をもって示したそうです。
孫権を母として支えた呉夫人
孫策が許貢の食客らに殺害されてしまうと、
同じく呉夫人の息子であり、孫策の弟であった孫権が跡を継ぎました。
呉夫人は、孫権がまだまだ17歳で幼かったのもあり、
孫策より孫権の補佐を任されていた張昭や董襲を呼び出して、
今後の事を話し合い、孫策の時同様に孫権を陰ながら支えていきます。
また202年に曹操は孫権に対して人質を差し出すように言ってくると、
重臣であった張昭をはじめ、話し合いがつかないでいました。
それで孫権は周瑜一人を連れて、
母であった呉夫人に相談したことがありました。
そうすると周瑜が呉夫人の前で語りだします。
「孫権様は、父や兄の資質を持っており、六郡を治めており、
その上に屈強な兵を従え、食糧も豊富にあります。
曹操に人質を贈る必要はあるのでしょうか!?
逆に人質を贈る事で、曹操の命令があれば断れない事も増えるだろうし、
急いで人質を贈る必要はなく、今は静観しておくので十分でしょう。」
この周瑜の意見を聞いた呉夫人は納得したそうです。
また孫権も呉夫人が納得した事で、曹操に人質は贈らない事で決定しました。
この時に呉夫人は、
「孫策と義兄弟であった周瑜を、生涯兄と思って接しなさい」と言うと、
孫権は周瑜を実の兄のように生涯に渡って慕ったようです。
その後の呉夫人
呉夫人は死期が近いと悟ると、
張昭・張紘らに孫権の後事を任せた上でこの世を去り、
229年、孫権が即位して呉を建国した際には、
父である孫堅を妻として支え、子であった孫策・孫権を母として支えた呉夫人は、
良妻賢母とはまさに呉夫人の為にあるような言葉だと思いますね。
それから本来であれば「個人伝」を立てられる立場でなかったものの、
呉夫人は、個人伝が立てられています。
おそらく呉にとってそれだけ影響力のあった人だったのでしょう。
逆に呉夫人が孫堅の妻になっていなければ、孫策・孫権もこの世に生まれておらず、
呉は間違いなく誕生する事もなかったでしょうから・・・。