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三国時代に使われた戦船
戦略戦術兵器辞典/中国古代編(22・23P)より画像引用
三国時代には様々な船が登場していますが、
今回は三国時代に戦争等で活躍していた船を紹介していきます。
かつて秦の嬴政(後の始皇帝)が中華統一を果たす更に前から、
様々な用途をもった船が使われていましたが、
実はそれから数百年経った三国時代でも、船についてはそれほどの変化がなかったのが実情でした。
つまり三国時代の船を知る事で、完全にとまでは言えませんが、
漢王朝時代や春秋戦国時代で使われていた船を自然と学ぶことができるという事が言えます。
ゲーム制作会社としても有名なKOEIの三国志ゲーム(歴史シュミレーション)でも登場する、
走舸・蒙衝・楼船あたりは知ってる方も多いと思います。
三国時代に生きた劉煕の著書に「釈名」というものがありますが、
全八巻から構成されており、そこに当時の船についての事が記載されており、
「釈名」に記載されている船を中心に見ていく予定です。
- 楼船(艦)
- 蒙衝(艨衝)
- 先登
- 赤馬
- 斥候船
- 艇
ただそこに掲載されてはいない露橈についても、
三国時代で多く活躍した船なのであわせて紹介したいと思います。
他にも晋の王濬が呉に攻め込む為に作った巨大艦もあったりしますが、
これについてはこちらの記事で書いてるので、興味ある方は下記事から読まれてください。
楼船(艦)-大型船-
真三國志㈡の25Pより画像引用
楼船は数百人の人数を乗船する事ができた大型船で、
矢から身を守る為に四方に板が立てられていることも特徴です。
短所としては船が大きくて重量があり、動きが鈍いことがあげられ、
その為に戦いでは弓兵や弩兵が多く乗船していたようです。
ちなみに外観が楼閣と似ている事が楼船と呼ばれた由来です。
また楼船の長さは20メートル前後(16~24メートル)あり、
艪の数は左右に20前後ずつ備えられていました。
総大将であったり、指揮官が乗船していたのが基本的にこの楼船であり、
中心的な役割を担っていた船になります。
また船の形が監獄に似ていた事からも「艦」という名がつけられたといいます。
蒙衝(艨衝)-中型船-
蒙衝は頑丈で鋭い船首をもっており、
敵船に勢いよく突撃して破壊することを目的とした船になります。
突撃した事で自らの船も壊れたりしますが、
小型船である「先登」と組み合わせることで、仲間を救助できる体制が取られていました。
赤壁の戦いで黄蓋が曹操軍の船に突撃した代表的な船が蒙衝であり、
蒙衝の長さは10メートル前後で、
櫓の数は左右に5前後ずつあったとされています。
先登 -小型船-
小型船であった先登に多くの兵士が乗り込み、
敵船に突撃&敵船に乗り込んで敵陣を崩す役割を担っていた船になります。
先登の長さは7メートル前後であり、
櫓の数は左右に3前後ずつあったとされています。
また先登は敵陣を崩す役割以外にも、
突撃して川に投げ出された仲間を救う役割も同時に担っていました。
赤馬 -小型船-
まさに名前の通りの小型船で、
船体が赤く塗られており、馬のように早く進む船になります。
「赤兎馬に由来したのではないか!?」
と想像してしまうような船でもありますが、
「先登」同様に、赤馬の長さも7メートル前後であり、
櫓の数も左右に三前後ずつあったとされています。
斥候船-小型船-
積載量が五百斛以上ある斥候の為の船になります。
斥候船には高櫓が立てられており、矢を防ぐ為の板が立てられていたりと、
敵数や敵陣を探る用途で使用されていました。
斥候船の話としては、
諸葛亮の十万本の矢の元ネタとされている孫権の逸話が残っていたりしますね。
赤壁の戦いより約五年後に勃発した濡須口の戦い(孫権VS曹操)で、
何故か孫権自ら偵察船に乗って曹操を偵察したという逸話が残されており、
曹操によって見つかった孫権の乗船した偵察船は、
多くの矢を受ける事となったわけです。
これにより片面に多くの矢が刺さった事で船が転覆しかけますが、
孫権の機転で船を反転させ、
もう片方にも多くの矢が刺さった事で船が安定したという「魏略」の話です。
艇 -小型船-
積載量が二百斛程度の小型船になります。
小さな船といっても、先登や赤馬よりは多少大きかった可能性が高そうです。
斥候船の縮小版のような役割を担っていた船であり、
基本的に二人で乗り込み、敵の偵察の役目を担っていました。
偵察以外にも、味方への連絡であったり、川に落ちた仲間の救出であったり・・・
ちなみに劉煕の「釈名」に名前がない「走舸」も、
言ってしまえば「艇」と似たような船であり、
ただ偵察以外にも他船の援護であったり、敵陣への奇襲や突撃など、
その時々の状況で臨機応変の用途で利用されていた違いはあるかもしれないですね。
露橈 -中型船-
露橈は船の側面から、
櫂が長く突き出した中型船であり、
側面には板が設置されており、弓などから漕ぎ手を守る役割を果たしていました。
露橈の長さは15メートル前後であり、櫓の数は左右に8前後ずつ、
十数名が乗り込むことができたといいます。
また指揮官が乗り込む事もあったようで、
指揮官を守る為の屋型が作られた船でもありますね。
参考にした二冊の本の紹介
この記事を書くにあたって、
戦略戦術兵器辞典(中国古代編)であったり、
歴史群像の真三國志㈡も参考にしながら作成しています。
船についての戦略であったり陣形であったりも詳しく研究されており、
興味ある方は自分自身で手に取ってみるのも良いかと思います。
文章だけでは分かりにくい所があったりしますが、
イラストによる肉付けにより、非常に分かりやすいものとなっていたりします。
〈戦略戦術兵器事典(中国古代編)〉