白馬寺の建立
洛陽にある白馬寺は、中国最古(後漢)の仏教寺院であり、
創建されたのは永平十一年(68年)とされており、後漢の明帝時代にあたります。
白馬寺は中国最古の仏教寺院ではありますが、
前漢皇帝であった哀帝の治世下に既に仏教が伝わっていた事が、 「三国志の烏丸鮮卑東夷伝(裴松之注『「魏略」西戎伝)』」に残されています。
そこには次の記録が残されています。 「昔漢哀帝元壽元年、 博士弟子景盧受大月氏王使伊存口受浮屠經曰復立者其人也。」 「元寿元年(紀元前2年)に、 大月氏王の使者である伊存が博士弟子の景盧に浮屠経(仏典)を口伝した。」 ※浮屠を言い換えると、仏陀(ブッダ。」仏)になります。 |
明帝は後漢を建国した光武帝(劉秀)の息子であり、二代目皇帝に即位した劉荘という人物です。
ちなみに劉荘は光武帝の四男にあたる人物ですが、
光武帝の長男は劉彊であり、本来であれば二代目に即位する人物でもありました。
しかし劉彊が太子の立場を返上した事により、回り回って四男である劉荘が太子となり、
光武帝が亡くなった後に皇帝へと即位した流れとなります。
ちなみにこの劉彊の子孫が劉虞であり、本来であれば皇帝となっていた一族という事もあり、
後漢末期(三国志)の劉氏の中でもと名門中の名門だとされるのはその為です。
では何故に明帝の治世下に建立されたのかというと、
ある時に明帝が次のような夢を見た事がきっかけだとされています。
~永平七年(64年)~
「全身から光を放つ丈六金人(仏陀)が西の方から飛んでくる夢」 明帝「長大で頭上に光明があった金色の人を夢で見たけれども、これはなんの夢であろうか?」 傅毅「西方に仏陀(仏)と呼ばれる神がおり、 その神の身長は一丈六尺の大きさで、黄金の肌をしております。」
それを聞いた明帝が西域に蔡愔・秦景らを西域に派遣した事が「後漢書」西域伝に残されています。
その後に蔡愔らは天竺(インド)に至り、 迦葉摩騰(摂摩騰)・竺法蘭という二人の高僧を連れて洛陽へと帰国しています。 これが永平十年(67年)のことです。
ちなみに丈六金人とは仏陀(ブッダ・仏)の事であり、 仏陀の伸長が一丈六尺(約370cm)であった事からそのように呼ばれています。
また金人の意味ですが、仏陀の皮膚が金色であった事に由来します。 |
そして蔡愔・秦景らは、迦葉摩騰・竺法蘭らを連れて洛陽へと帰還し、
迦葉摩騰・竺法蘭らは他の者達も寝泊まりする仮宿の鴻臚寺(異国人に対応するための役所)に滞在していたものの、
明帝が長らく住まいとして使えるように洛陽にて白馬寺を建立してあげたという流れになります。
またこの当時は寺=仏教施設という現在の認識ではなく、
寺=役所という立ち位置であった事は余談です。
後に仏教が中国各地に広まっていく過程の中で今のような名前になっていったと考えられます。
そして二人は漢訳仏典の第一号となる「四十二章経」を白馬寺にて完成させるわけですが、
四十二章経は42章から構成されるお経であり、
日常生活や仏門修行における教えが書かれてあったものになります。
ただ現在この内容は一般的に否定されており、五世紀あたりに翻訳されたと言われています。
その場合は明帝の夢の話から疑っていかなくてはならなくもなるのですが・・・
だからこそ今もこの辺りの逸話が、あやふやなままとされているのが現状です。
梁高層伝に残る迦葉摩騰・竺法蘭の原文
〈迦葉摩騰伝〉
逮漢永平中、明皇帝夜夢金人飛空而至、乃大集群臣、以占所夢。 通人傅毅奉答「臣聞西域有神、其名曰『佛』、陛下所夢、將必是乎。」 帝以為然、即遣郎中蔡愔、博士弟子秦景等使往天竺、尋訪佛法。 愔等於彼遇見摩騰、乃要還漢地。 騰誓志弘通、不憚疲苦、冒涉流沙、至乎雒邑。 明帝甚加賞接、於城西門外立精舍以處之、漢地有沙門之始也。 但大法初傳、未有歸信、故蘊其深解、無所宣述。後少時卒於雒陽。 有記云:騰譯《四十二章經》一卷、初緘在蘭臺石室第十四間中。 騰所住處、今雒陽城西雍門外白馬寺是也。 相傳云:外國國王嘗毀破諸寺、唯招提寺未及毀壞。 夜有一白馬繞塔悲鳴、即以啟王、王即停壞諸寺。 因改招提以為「白馬」。故諸寺立名多取則焉。 |
〈竺法蘭伝〉
竺法蘭,亦中天竺人,自言誦經論數萬章,為天竺學者之師。 時蔡愔既至彼國,蘭與摩騰共契遊化,遂相隨而來。 會彼學徒留礙,蘭乃間行而至。 既達雒陽,與騰同止,少時便善漢言。 愔於西域獲經,即為翻譯,所謂《十地斷結》、《佛本生》、《法海藏》、《佛本行》、《四十二章》等五部。 移都寇亂,四部失本,不傳江左,唯《四十二章經》今見在,可二千餘言。 漢地見存諸經,唯此為始也。 愔又於西域得釋迦倚像,是優田王栴檀像師第四作。 既至雒陽,明帝即令畫工圖寫,置清涼臺中及顯節陵上,舊像今不復存焉。 又昔漢武穿昆明池底得黑灰,問東方朔, 朔云:「不知,可問西域胡人。」 後法蘭既至,眾人追以問之, 蘭云:「世界終盡,劫火洞燒,此灰是也。」朔言有徵,信者甚眾。 蘭後卒於雒陽,春秋六十餘矣。 |
「後漢書」光武十王列伝に残る仏教の記録
陳寿三国志より後に作られた歴史書ではありますが、
明帝の異母兄弟である劉英(楚王)が仏教を信奉していたという記録が「後漢書」光武十王列伝(楚王英伝)にも残されています。
英少時好遊俠、交通賓客。
楚王である劉英は若い時には遊侠を好み、食客と交わっていた。 晚節更喜黃老、學為浮屠齋戒祭祀。 年を取ってからは黄老道(黄帝と老子に由来する道家思想)を学び、浮屠(仏陀)の斎戒祭祀を信奉した。 |
この事を考えても、前漢の明帝の治世下には、
中華全土に仏教がある程度浸透していたと考える方が自然かと思われます。
ですので「四十二章経」についての成立時期は一旦置いておくとしても、
そんな中で迦葉摩騰・竺法蘭らをきっかけとし、白馬寺が建立されたのでしょう。
また白馬寺と名付けられた由来は、二人が経典を積んできた馬が白馬であった事から、
その名称が名付けられたと伝えられています。
その後の二人ですが、白馬寺にてそのまま亡くなったとされており、
今もなお二人の墓は白馬寺(山門の両端)にて眠っています。
最後に余談ではありますが、略奪や裏切りを繰り返した悪党であるにも関わらず、
庶民に仏教を広めた事で知られる三国志の人物に笮融がいます。
笮融は大寺院を建立した事でも知られていますが、
もしかするとその大寺院建立に大きな影響を与えたのが白馬寺であった可能性も否定できないですね。
もちろんそんな文献は残ってはいませんが・・・
ただそんな白馬寺ですが、董卓による洛陽焼き討ちの際に焼失しています。
その後に魏が再建したとされていますが、
その後も幾度にもわたって破壊と再建を繰り返しながらも今に至っています。
ちなみに白馬寺の東側には、斉雲塔(白馬寺塔/石塔)が建てられているのですが、
雲の高さに斉しき塔という意味合いからそう名付けられたと言われています。
斉雲塔は大定15年(1175年)の金王朝の時代に作られた13層の塔なのですが、
今も現存する洛陽最古の建物でもあります。