吉川三国志が後世に与えた影響
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ウィキペディアより本人画像引用
吉川英治と言えば、三国志を語る上で欠かせない人物になりますが、
もしも吉川英治が三国志を書いていなければ、今ほど三国志が好きな方がいなかった可能性が高いほどの作品になります。
吉川英治は1892年8月11日に神奈川県にて誕生し、
1962年9月7日に70歳にて亡くなられていますが、彼の後世に残した功績は計り知れません。
その代表的な分野の一つが三国志だと言えるでしょう。
吉川英治の三国志に影響を受けた代表的な人物が横山光輝であり、
他の三国志作品を生み出された方の多くが大なり小なり影響を受けています。
まさに近代における三国志ブームを作り出したきっかけの人物だと言えます。
ちなみに横山光輝により生み出された三国志の漫画に魅了された方も多いです。
横山三国志に関して言えば、アニメでも放送された事も大きな広がりを見せた要因の一つでしょう。
そして今では小説・漫画・人形劇・ドラマ・映画・ゲーム等において、
数えきれない程の三国志作品が生み出されており、更に多くの人々から愛されるものとなっています。
吉川英治と通俗三国志

吉川英治が後世に多大な影響を与えたように、
吉川英治が影響を受けたのが通俗三国志(絵本通俗三国志含む)になります。
もともと三国志演義が中国で誕生し、日本に伝わってきたわけですが、
江戸時代にの湖南文山によって三国志演義の翻訳がなされた「通俗三国志(50巻)」が誕生します。
これが江戸時代で人気を博し、後に吉川英治も大きく影響を受けたという流れです。
| 湖南文山(江戸時代)は義轍・月堂の兄弟が使った筆名だと言われており、中国から伝わった三国志演義を義轍が翻訳を開始し、義轍の没後は月堂が引き継いで完成させたとされています。
ちなみにそこから約150年の月日を経て、 葛飾北斎から「戴斗」の号を譲られた葛飾戴斗(二代目)の挿絵を加えられたものが「絵本通俗三国志」であり、 これにより更に人気の広がりを見せていく事となります。 |
吉川英治と吉川英次
一般的に吉川英治として世間に知れ渡っていますが、
本名は吉川英次であり、もともとは本名にて作品作りをしていました。
しかし1925年の「剣難女難」が連載掲載された際に予期せぬ事が起こります。
出版社が「英次」を「英治」と誤って記載してしまったわけです。
ただ剣難女難は本人にとっても出世作でした。
また本人がこの「英治」という名を大変に気に入った事で、それ以降は吉川英治を使うようになったと本人が語られています。
それからもヒット作品を多数生み出し、そして「三国志」が誕生した流れとなります。
ちなみに吉川三国志によって誕生した言葉も複数あり、
「周瑜=美周郎」「孫夫人(孫尚香)=弓腰姫」という言葉を最初に誕生させたのも吉川英治だったりします。
今では当たり前に使われていますが、それまでの三国志にはなかった言葉でもあるわけです。






