曹操を語る上で有名な刀剣と言えば、
「七星剣」「青釭の剣」「倚天の剣」ではないでしょうかね?
結論から言ってしまえばどの剣も三国志演義で登場した剣であり、
実際に実在したかどうかは不明の剣ばかりです。
そんな中で、曹操が五振りの刀を作らせたという話があります。
目次
「七星剣」「青釭の剣」「倚天の剣」とは?
「曹操」と「刀剣」を結び付けた場合にまず出てくるのがこの三つの剣でしょう。
しかし全て三国志演義のみにしか登場しておらず、
実際にあったものかどうかも不明な剣であると思います。
「七星剣」は、
曹操が董卓暗殺の為に王允から借り受けたのが七星剣になります。
もう少しという所で董卓に疑われた曹操は、
七星剣を董卓に献上するといった形で難を逃れていますね。
ただ中国の歴史書には七星剣が登場した記載があり、
春秋時代の伍子胥が楚王から頂いたのが七星剣だったそうです。
「青釭の剣」は曹操から夏侯恩が頂いたようですが、
長坂の戦いで趙雲に一騎打ちで敗れて奪われていますね。
ただその後、青釭の剣は登場していません。
最後に青釭の剣と対をなすと言われた「倚天の剣」は、
曹操自らが所持していたようで、それ以上の説明は不要かなと思います。
五振りの百辟刀(ひゃくへきとう)
七星剣・青釭の剣・倚天の剣と三国志演義でしか登場しないものと違い、
実際に曹操が五振りの百辟刀を作ったという記録があります。
ちなみに百辟刀は、
「何度も繰り返して練り上げた刀」といった意味になりますね。
また「魏武帝 百辟刀令」に次のような文章があります。
「往年、百辟の刀、五振りを作る。
できあがるや先ず一振り五官将に与え、
残った四振りは庶子の中で武を好まず文学を好む者あらば、
二番目としてこれを与えた。」と・・・
もう少しわかりやすく訳すと、
「ある時、曹操は刀を五振り作った。
百辟刀ができあがると、まず最初に一振りを曹丕(五官将/役職)に与え、
残った四振りを子供達の中で武を好まず、文学を好む者達に与えた。」
といった感じですね。
曹植の「宝刀賦」
一振りの刀を貰って喜んだ曹植が書いたのに「宝刀賦」というものがあるんですが、
その「序」には次のように書かれています。
「建安年間(196年~220年)に、
曹操は鍛冶師に命じて五本の宝刀を作らせ、
完成に三年の月日がかかった。
それぞれの剣には龍・虎・熊・馬・雀の装飾があり、
兄の曹丕がまず最初の一振りを貰い、
私(曹植)と弟の饒陽侯(曹林/曹植の異母弟)が一振りずつ貰い受け、
残り二つの刀は、父親である曹操が自分用とした。」
つまり次のように宝刀を分けたという事ですね。
- 龍の刀→曹丕
- 虎の刀→曹植
- 熊の刀→曹林
- 馬・雀の刀→曹操
曹丕・曹植は卞氏(卞夫人)の子供ではありますが、
卞氏の次男坊である曹彰が抜けているのは少し可哀そうな気がします。
まぁ曹彰は全力で武を好んだ人物なので、与える条件に適していなかっただけでしょう。
三国志演義では、馬・雀の刀をモチーフとして、
対をなすと言われた青釭の剣・倚天の剣ができたのかもしれませんね。
「饒陽侯」という言葉から五振りの刀が作られた時期を絞る
曹丕・曹植は卞氏の子供達でしたが、
もう一人の曹林は、杜氏(杜夫人)の子です。
杜氏は関羽が妻にしたいとまで思った女性としても有名ですね。
ただ杜氏に一目ぼれした曹操に略奪されたみたいな感じなってますけど・・・
少し余談的な話にはなるんですが、
曹林よりも弟の曹袞の方が文学面では曹植に匹敵するほどの人物だとまで言われたので、
曹袞に与えたという方が個人的にはしっくりくるんですけどね。
話を戻すと曹林は建安16年(211年)に饒陽侯に封じられたとあるので、
このことから考えると曹操が五振りの刀を与えたのは、
211年から216年の間だと言えるでしょう。
216年までと言ったのは、
曹林は建安22年(217年)に譙侯に転封されているからですね。
曹操について記載が残る他の刀剣について
「古今刀剣録」には、
建安二十年(215年)に曹操が剣を見つけたという話があります。
曹操は暗く深い谷間にたまたま行くことがあった際に、
そこで一振りの剣を手に入れたというものです。
剣の長さは三尺六寸(約83cm)で、
剣には金色で曹操の字である「孟徳」と名が刻まれていました。
曹操はその剣を愛用し、いつも身に帯びていたそうです。
まぁ明らかにできすぎた話のような気がしますが、
一応曹操に関する記録として残っているものではありますね。