曹操の父である曹嵩が殺害される

曹操がある程度の地盤を確立してきたこともあり、

 

琅邪郡に避難していた父親である曹嵩や一族を、

自分の元に呼び寄せようと思って行動を起こします。

 

幼い頃から沢山迷惑をかけてきたこともあり、曹操なりの恩返しでもあったのでしょう。

 

 

しかしこの親孝行が裏目に出てしまいます。

 

曹操は泰山太守であった応劭に助力を求めるものの、

曹操と因縁があった陶謙の兵によって殺害されてしまったのでした。

 

この時に曹操の弟であった曹徳も殺害されています。

 

 

ただこの曹嵩殺害事件にはいくつかの説もあり、

陶謙の部下であった張闓が金銀財宝に目が眩んだ結果、殺害したとも言われていますね。

 

ちなみに三国志演義では、張闓が曹嵩らを殺害した説が採用されています。

 

 

これによって発生したのが、徐州での大虐殺になります。

徐州大虐殺

曹操は父親である曹嵩をはじめ一族の者達が殺害された仕返しに、

徐州に向けて兵(青州兵)を引き連れて進軍!!

 

 

復讐の鬼と化していた曹操は、

 

民衆であろうとお構いなしに殺戮行為を繰り返し、

死体によって泗水の流れが止まったとまで言われているほどです。

 

この勢いに恐怖を覚えたのが、言わずもがな陶謙ですね。

 

 

 

 

しかしここで間接的に陶謙を救ったのが、

呂布だったのです。

 

 

董卓殺害に成功したものの、董卓軍の残党である李傕・郭汜らによって、

長安を追われることになっていた呂布ですが、

 

陳宮に担ぎ上げられるような形で張邈と共に、

曹操の本拠地であった兗州を襲ったのでした。

 

 

曹操と張邈の関係は非常に深いもので、

敗れはしたもののかつては洛陽から長安へと遷都していた董卓を追撃したこともありましたし、

 

もしもどちらかが戦死する事でもあれば、

お互いの家族の面倒を見てくれるように頼んでいたほどの関係だったのです。

 

 

そんな張邈が呂布・陳宮と共に反乱を起こし、

兗州が襲ったことで、曹操は徐州から撤退せざるを得なくなったわけです。

 

 

しかし曹操が本拠地とする兗州の大半は、

呂布・張邈らによって制圧されてしまう事となります。

 

撤退して呂布・張邈らと戦った曹操ですが、

苦戦を強いられ、曹操自身も大きな火傷を負うほどの戦いだったといいます。

 

曹操は苦戦を強いられながらも、

なんとか兗州奪還に成功!!

 

 

曹操が勝利した裏側には、大量のイナゴ(蝗)が発生したことによって、

呂布・張邈らの食糧が尽きたという背景も見られます。

 

食糧が尽きれば撤退する道以外なくなるからですね。

 

 

最終的に張邈は部下に裏切られて討死、

一方の呂布は陶謙が病死した跡を継いだ劉備の元へと落ち延びていくこととなります。

献帝擁立

196年、曹操によって次の大きな転換点が訪れます。

 

呂布を追い出し長安に割拠していた李傕・郭汜らが仲違いしている際に、

どさくさに紛れて献帝が長安を脱出していたからです。

 

 

この時に曹操は、

荀彧・程昱の勧めに従って献帝を迎え入れています。

 

漢王朝の権威は地に落ちていたものの、

献帝を迎えたという意味は非常に大きなもので、

 

曹操によって一番大きかったのは、

大義名分を獲得することができた点でしょう。

 

何故なら自分に逆らう者達を朝敵としてどうどうと討つことが可能になりますし、

大義名分がない戦いを繰り広げれば、人は離れていくからです。

動乱を駆け抜けた後漢最後の皇帝、献帝(劉協)

 

 

余談ですが、丁度このあたりのタイミングで屯田制を採用しています。

屯田制のきっかけを与えたのは韓浩になりますね。

 

 

実際は韓浩だけでなく、棗祗そうしと共にというのが正確な所ですけど・・・

 

 

棗祗は三国志演義にも登場しない人物ですし、

何より屯田制の開始に大きな貢献をしたものの早世してしまった為に、

 

ほとんど知られていない人物なので、しょうがないとは思いますけどね。

張繍・賈詡の策略によって大打撃を負った曹操

献帝を擁立した曹操は、更なる勢力拡大に邁進していきます。

 

李傕・郭汜同様に董卓軍の残党であった張繍もその一人ですね。

 

張繍は宛城を拠点にしていた勢力ですが、

張繍は曹操が攻めてくるやいなや、あっさりと降伏しています。

 

 

気分を良くした曹操はここで色々やらかしてしまったわけです。

 

張繍の叔父にあたる張済の未亡人であった鄒氏を、

曹操が大層に気に入ってしまった感じで、

 

これに大変な怒りを覚えたのが張繍でした。

曹操を虜にした未亡人、鄒氏(すうし)

 

 

そして張繍は賈詡に相談し、曹操強襲計画を決行!!

 

 

完全に油断していた曹操は、

命からがら宛城からなんとか撤退することに成功!

 

ただし長男であった曹昂や一族であった曹安民が討死するだけでなく、

豪傑としても知られた典韋の死と引き換えに・・・

 

 

最終的に張繍は再度曹操に降伏を申し出ていますが、

袁紹との戦いを前にした曹操は、この時の恨みを忘れて張繍を迎え入れています。

 

曹操の懐の大きさを物語る話の一つです。

乱世の狭間を上手に生き抜いていった張繍

 

 

また同時期に徐州を劉備から奪った呂布の討伐にも成功しています。

 

 

この時に呂布は「縄の縛り方がきつすぎるから、

もう少し緩めてくれないか!?」と言ったのに対し、

 

曹操が「虎を縛るのにはこれぐらいが丁度よいであろう」と答えた話が残ってたりしますね。

官渡の戦い(曹操VS袁紹)

曹操と言えば欠かせないのが袁紹との争いでしょう。

その中でも官渡の戦いは代表的な戦いです。

 

袁紹は公孫瓚を降し、華北に大きな勢力を割拠させ、

曹操自身も「勝てるかどうか分からない程の相手」と弱音をはいていたほどです。

 

この時に曹操を励まして支えたのが荀彧でした。

 

 

荀彧の励ましでなんとか踏ん張っていた曹操ですが、

それでも劣勢を強いられており、

 

そんな中で袁紹の参謀であった許攸が裏切ってきたことで状況が一変します。

 

袁紹軍の食糧庫が烏巣にあることを知った曹操は、

鳥巣襲撃で袁紹軍の食糧を焼き払うこと見事に成功!!!

 

 

鳥巣の砦を守っていたのが、

かつて曹操と共に西園八校尉に選ばれたことがある淳于瓊でしたが、

 

淳于瓊は鳥巣を守れずに討死してしまいます。

 

これにより官渡の戦いは、曹操の勝利で決着したわけです。

官渡の戦いで勝利の立役者になった許攸

実は優秀でエリートだった淳于瓊

 

 

この時の面白いというか曹操らしい逸話も残っているので軽く紹介しておきます。

 

官渡の戦いに勝利した曹操ですが、

相手の陣営跡で曹操は思わぬものを多く発見します。

 

それは曹操配下の者達からの袁紹に寝返りを求める書簡だったのです。

 

これを見た曹操は、

「私でさえ弱気になってしまったのだ。ましてや・・・」と言うと、

 

書簡を見ずに全て焼き払ったといいます。

 

 

これには個人的には、

二つの意味合いがあったと思いますね。

 

一つは書簡を見ずに焼き払ったことで、書簡を送った者達を安心させるという狙いで、

もう一つは沢山の書簡の中から自分が信頼している者達の名が出る事への恐れもあったのでしょう。

 

だからこそ曹操はあえて焼き払う事で、なかったものとしたと言えると思います。

 

 

 

また袁紹との戦いの際に、

程昱の「十面埋伏の計なんてのも有名な計略ですね。

 

 

まぁこれは官渡の戦いではなく、

官渡の戦いの翌年に勃発した戦いである倉亭の戦いでの話であり、

 

もっと言ってしまえば、三国志演義で登場している策略なので、

正史に記載が残る戦略ではないのは補足です。

十面埋伏の計