司馬炎が「晋」を建国

司馬昭の跡を継いだ司馬炎は、

魏皇帝であった曹奐に対して禅譲を迫ります。

 

 

禅譲とは皇帝から頼まれて皇帝の位を受けるというものですが、

 

あくまで表向き上の話であって、

強制的に奪われたのとまったく同じ定義になりますね。

 

以前に曹丕が漢皇帝であった献帝に対してやったことと全く同じことを、

今度は回りに回って曹一族が迫られることになったのでした。

 

 

これにより曹操が基盤を築き、

曹丕・曹叡・曹芳・曹髦・曹奐と続いてきた曹魏ですが、

 

曹奐を最後に曹魏は滅亡してしまう事になったわけですね。

 

これは蜀が滅びた二年後の265年の話になりますが、

蜀に続いて三国時代を彩った魏が滅んでしまう事に・・・

 

そして司馬炎から始まった「晋」が天下統一に向けて動き出すことになります。

孫権の跡を継いだ孫亮&孫綝の専横

孫権の死後は孫亮が跡を継いでいましたが、

孫綝の専横によって孫亮は皇帝として形だけの存在になっていました。

 

 

孫亮はもともと跡を継ぐ予定ではなかったのですが、

 

孫権の後継者をめぐって孫和派と孫覇派にわかれて争った二宮の変が起こった事で、

孫権はそれまで太子であった孫和を廃立し、孫覇を処刑してしまいます。

 

二宮の変があってからというもの、

新たに孫権によって太子に立てられていたのが孫亮でした。

 

 

その後に孫権が崩御すると、

孫亮は幼いながら皇帝に即位した人物になります。

 

そして皇帝が幼い事をいいことに諸葛恪や孫俊の専横が起こってしまいます。

 

 

そしてその後に現れたのが孫綝そんちんでした。

 

しかし諸葛恪や孫俊以上に専横が激しく、

この頃には成長していた孫亮は「このままではいけない!」と孫綝を殺害しようと考えます。

 

 

ただ殺害計画は事前に漏れてしまい、

逆に孫綝の反撃を食らう形で孫亮は廃位に追い込まれてしまったのでした。

孫休の即位&孫晧の即位

 

孫綝は孫亮を廃位に追い込むと、

孫亮に代わって自分自身が即位しようか考えたようですが、

 

周りからの反対があって皇帝即位は諦めたという経緯がありました。

 

そしてそんな中で孫亮の後を継いだのが孫休なんですが、

孫休はなかなか優秀な人物だったこともあり、国内でも孫休への期待が大きくなっていきます。

 

 

はじめこそ孫休と孫綝はうまくやっていましたが、

孫綝がふとしたことから孫亮の時のように孫休を廃位しようということを口にしてしまったのです。

 

この話が孫休の耳に入ると、最終的に孫綝を殺害してしまいます。

 

 

周りから呉を立て直せる人物は孫休しかいないだろうと期待される中、

残念ながら曹休は三十歳でこの世を去ってしまったのでした。

 

 

この時代には天寿を全うせずに死んだ皇帝が多く、

 

孫休は短い命ながらも自然な病死であったことから、

「最近では珍しく天寿を全うした皇帝だった」と言われたほどでした。

 

 

ただ孫休の死によって呉の債権は次の皇帝に託される事になり、

最終的に跡を継いだのが、呉最後の皇帝になる孫晧そんこうだったのです。

暴君孫晧の誕生

孫晧が皇帝に即位して間もなく、建業から武昌に遷都を決行します。

 

この時のはっきりした遷都の理由は分からず、

かつ反対した者達は誅殺されてしまう始末という・・・

 

 

もともと建業は張紘の進言を受け入れて都になった場所でしたが、

 

一時孫権時代にも武昌に遷都が行われていたものの、

孫権の皇帝即位に伴って建業へと再度戻されていました。

 

このように孫権の時も遷都は行われていましたが、

それぞれに遷都する際にははっきりした意味合いがありました。

 

 

それに比べて今回の遷都の意味が理解できる者はおらず、

当たり前のように遷都する事に反対する者が続出したわけですよね。

 

ただ違憲した者には、

処罰・処刑されたのは言うまでもないかもしれません。

 

 

そんな中で建業へと半ば強制的に遷都してから一年ほどで、

今度再び建業へと遷都て元に戻すという荒業・・・

 

短いスパンで連続して遷都された事で、

民衆への負担が激増し、孫晧への不満が続出したといいます。

 

そして逆らう者には、処罰・処刑の流れに・・・

引き籠もったら死んだと思われた孫晧

 

 

また新たに宮殿を建てることで財政難に陥ってしまうわけですけど、

孫晧はお構いなしという状態で私利私欲に溺れた生活を送ります。

 

 

孫晧のこれらのことを総合しても、

漢時代・三国時代の皇帝になった人物全員と比較しても、

 

孫晧を超える程の暴君はいなかったとまで言われたようです。

 

これらのことから、孫晧を漢時代・三国時代の歴代皇帝合わせても、

「孫晧を超えるような暴君は見当たらない」とまで言われたそうです。

三国史上最悪の皇帝と言われた孫晧は、具体的に何をしたの?