十面埋伏の計
「十面埋伏の計」は、
三国志演義に登場する計略です。
曹操が官渡の戦いで袁紹に勝利したのが200年になりますが、
その翌年に再び激突したのが倉亭の戦いなんですが、
その戦いで用いられた計略になります。
これは「左右に五部隊ずつの合計十部隊を伏兵にし、
誘い出した敵を四方八方から攻撃する」といった戦術になります。
ちなみに「十面埋伏の計」は、
三国志演義に初めて登場した計略ではなく、
かつて劉邦と項羽による漢楚の戦いで韓信が用いた計略が、
三国志演義にも取り入れられている感じです。
当時の劉邦の兵力は項羽を大きく上回っていましたが、
項羽の反撃が激しく、関心が思うように項羽を追い詰められませんでした。
そこで韓信が用いたのが多くの伏兵を配置した「十面埋伏の計」で、
これにより項羽は垓下に追い込められます。
そしてこの場所こそ、
「四面楚歌」の四字熟語が生まれた場所でもありますね。
「十面埋伏の計」が使われた倉亭の戦い(三国志演義)
三国志演義に登場した「十面埋伏の計」は、
袁紹軍に対して劣勢を強いられていた曹操に対して、
程昱が提案したものですが、
曹操は程昱の作戦のもと、左右に五部隊ずつ兵を隠し、
袁紹軍を誘き出すために許褚に夜襲を仕掛けさせます。
ただ本気で夜襲をしかけさせたわけではなく、
手を抜きつつ不自然じゃない程度に戦い、
結果として夜襲が失敗したような形で袁紹軍を誘導したわけです。
伏兵の陣形は次のようなものでした。
【左翼伏兵部隊】
- 第一部隊:夏侯惇
- 第二部隊:張遼
- 第三部隊:李典
- 第四部隊:楽進
- 第五部隊:夏侯淵
【右翼伏兵部隊】
- 第一部隊:曹洪
- 第二部隊:張郃
- 第三部隊:徐晃
- 第四部隊:于禁
- 第五部隊:高覧
うまく許褚におびき出されることになった袁紹軍ですが、
許褚が退却している先に待ち受けていたのは、
黄河を背にした曹操の軍勢でした。
『そもそも「十面埋伏の計」というものは、
物事が一度頂点に達してしまえば、後は右肩下がりしかない』
という考えから生まれた作戦になります。
これは人間や軍隊に対しても有効で、
頂点(限界)を越えた後は、疲れがどんどん出てくるという考えから生まれたものです。
つまり何が言いたいかというと、
頂点を過ぎた軍隊は、それが例え大軍であっても脆くなるということです。
後はどうやって相手に限界を超えさせるかどうかということが課題で、
そこで曹操が取ったのが今回の背水の陣だったわけです。
ちなみに「背水の陣」も「十面埋伏の計」同様に、
かつて韓信が実際に用いた計略になります。
韓信が「背水の陣」を用いた際は、
韓信軍が三万、趙軍が三十万と十倍の差があった時でした。
韓信軍の兵士らは「逃げ場がない!」と感じた事で、普段の数倍の力を発揮したわけです。
これにより韓信は見事に勝利しています。
つまり曹操は韓信の「十面埋伏の計」と「背水の陣」を組み合わせ、
なおかつ自らを囮にして袁紹を誘ったのでした。
袁紹から見た曹操軍は、
おそらく逃げ場を失ってる軍勢に見えた事でしょう。
そうとは知らず、袁紹軍は勢いそのままに曹操の陣に向かって、
総攻撃を仕掛けさせたのです。
しかし全軍を突撃させたことと、黄河を背に屈強に抵抗する曹操を前にして、
次第に袁紹軍の指揮系統&伝達系統がおかしくなっていきます。
これは既に袁紹軍が頂点(限界)を超えてることを意味し、
上でも書いた通り、後は落ちていくだけに・・・
そして更に十部隊の伏兵が四方八方から襲いかかったことで、
袁紹軍は官渡に引き続き、またもや惨敗を喫したのでした。
竹中半兵衛(竹中 重治)も用いた「十面埋伏の計」
TENKAFUBU信長(4巻139P・144P)より画像引用
「十面埋伏の計」は、実は日本でも使われたことがあります。
それは戦国時代に斎藤家と織田家の間で行われた戦いで、
斎藤家の竹中半兵衛(竹中重治)が「十面埋伏の計」を用いて、
織田信長を撃退に成功しています。
竹中半兵衛は後に木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に仕えた事で知られていますが、
藤吉郎は半兵衛を味方にすべく「三顧の礼」で迎えたといいます。
ただ半兵衛が「十面埋伏の計」を用いたのは、
まだ斎藤家に仕えている頃で、
織田信長と何度も激突を繰り広げていた中での一つの戦いの最中になります。
「孫氏の兵法書」など中国の兵法は、
数多く日本にも伝わっていましたし、
おそらく「十面埋伏の計」も、
半兵衛もどこかしらで目にしていた可能性はあると思います。
藤吉郎の「三顧の礼」にしても、
劉備の影響を受けていた可能性はありますから・・・
武田信玄が旗印にした「風林火山」などは、
「孫氏の兵法書」の中に書かれてある言葉で、影響を受けた分かりやすい例ですね。
「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」