陶謙(恭祖)

 

陶謙(とうけん)は幼い頃から学問に励み、

州や郡の役人になり、幽州刺史に任命されています。

 

西涼で韓遂らの反乱が起こると、

陶謙は中央に呼び出されます。

 

そして張温(ちょうおん)指揮下のもと、

韓遂らの討伐に向かっています。

 

 

この時期、黄巾の残党軍が各地で暴れており、

陶謙は徐州刺史として徐州へ赴きます。

 

また190年に袁紹が反董卓連合を結成しますが、

参加せず、徐州統治に専念しています。

曹嵩(そうすう)の殺害

曹操の父である曹嵩は、

兗州が乱れていた為、徐州の琅邪郡に避難していましたが、

 

曹操が兗州を治めると、

曹嵩は曹操を頼って、兗州に向かおうとします。

 

しかし、ここで曹嵩が持っていた財産に目が眩み、

張闓(ちょうがい)が、曹嵩ら一行を惨殺してしまいます。

 

張闓は陶謙の家臣だったともいわれ、

陶謙が命令して曹嵩らを排除したという話もあり、

正確なところ、これが確実な事実というのは分かっていません。

 

経緯はどうであれ、徐州でこの事件が起きた事で、

曹操は、徐州を治める陶謙を激しく恨みます。

陶謙VS曹操

父親を殺されたことで陶謙に恨みを抱いた曹操は、

徐州へ兵を向けます。

 

曹操の怒りはすさまじく、

徐州の多くの城が陥落していきます。

 

またそこに住む住民達も虐殺しため、

死体によって泗水の流れが一時止まったとも言われています。

 

しかしそんな折に、イナゴが大量発生し、

食糧難に陥った曹操は、仕方なく撤退をしています。

 

 

曹操をなんとか撃退できた陶謙でしたが、

徐州内の被害はすさまじく、

 

生き残った民衆も安全な土地を求めて、

徐州を去る人も続出しました。

曹操の再侵攻

曹操をなんとか撃退できた陶謙でしたが、

食糧の確保が整うと、再度侵攻してきます。

 

今回の侵攻でも、各地の城が陥落し、

徐州の命運も尽きそうだった時にまた事件が起こります。

 

呂布と張邈・張超兄弟が、

曹操が治める兗州を襲う事件が起こり、

もう一息という所で再度撤退をしています。

陶謙の死

曹操の2度の侵攻をなんとか防いだ陶謙でしたが、

陶謙は病気になり、あっさりとこの世を去ります。

 

その際に、公孫瓚より援軍として助けに来てくれた劉備に、

徐州を譲っています。

 

 

譲った理由としては、陶謙の子である陶商・陶応が、

どちらも頼りなかったからだと言われています。

 

それに徐州が曹操によって危機的状況でもあったので、

そのように決断したのかもしれません。

 

 

三国志正史を記載した陳寿は、

「ルールを守らず、感情に任せての行動が多すぎた。

その為、司法と行政の連携が取れていなかった。

 

その為、多くの人々が被害を被ってしまい、

陶謙自身は、憂慮の中で死んでいった。論ずるに値しない」

と陶謙を厳しく評価しています。