諸葛亮の第一次北伐&孟達

諸葛亮が劉備の意志を引き継ぎ、

二代目である劉禅を支えながらも、魏打倒を掲げた戦いが北伐でした。

 

諸葛亮は北伐を開始するにつけて事前から色々と調略をかけたりと、

北伐を成功させる為の準備をいくつも準備していたと言われています。

 

 

諸葛亮は生涯を通じて五度の北伐を敢行していますが、

その中でも最も北伐成功の可能性が高かったのが第一次北伐でした。

 

その中で魏蜀の板挟みにあいながら、散っていった人物がいました。

 

その人物は言わずもがな孟達ですが、

孟達の叛意が魏に知られ、結果として司馬懿に鎮圧されてしまいます。

 

一般的には孟達が司馬懿を甘く見たからだと言われますが、

実際はそれだけではなかったのが「晋書」や「華陽国志」から知ることができます。

 

ここではそのあたりに光を当てながら、孟達の反乱について見ていきたいと思います。

第一次北伐に関しての諸葛亮の下準備&北伐開始

諸葛亮が雍闓らの益州南部で起きた反乱を鎮圧して後、

ここぞといわんばかりに諸葛亮が実行に移した事が北伐でした。

 

この時に劉禅に上奏したのが出師表であり、

「臣亮言 先帝創業未半 而中道崩殂」から始まる文章は有名ですよね。

 

「出師の表を読んで涙を流さない者は不忠である」

という言葉を聞いたことがある人もいるかもしれません。

 

 

話を戻しますが、諸葛亮は大幅に劣る蜀の戦力で魏に勝利すべく、

北伐に際して次の四つの下準備をしていたと思われます。

  • 新城太守(房陵・上庸・西城の三郡が統一された郡)であった孟達の裏切りを誘う
  • 蜀に対しての防備も手薄で、油断している時期を調べる
  • 涼州(馬超・馬岱など)と関係が深い涼州の反乱を誘う
  • 呉と連携する事で、二方面・三方面から魏を攻める

 

そして諸葛亮は北伐で勝利を得られる可能性を見出したことで、

遂に北伐を開始する流れとなります。

 

もともと蜀が魏に攻め込むなど、魏側の者達はほとんどと言うほどに考えてもおらず、

そんな中で諸葛亮は、更に敵が油断していると想像できる正月を狙って魏へと攻め込んでいます。

 

そして蜀への対応をしていなかった魏軍は、劣勢を強いられてしまうこととなります。

つまり諸葛亮の思惑通りに進んでいったわけですね。

諸葛亮が第一次北伐をおこした228年正月の正式な時期はいつ?

上でも述べましたが、諸葛亮の第一次北伐を行動に移したのは、

228年正月ということは正史の記録から分かります。

 

そしてこの正月の正確な時期は、もともとは12月末頃が正月だとされていました。

現在1月1日が日本の正月なので大体同じ時期だと言えますね。

 

 

微妙なずれとして、当時の暦と現在の暦に関して、

 

多少のずれはあったと思いますから、

ほとんど1月1日あたりが正月だと思ってもらっていいと思います。

 

 

ただ12月末頃を正月としていたのは前漢までとされており、

後漢の時期からは立春にあたる2月初めを正月としていたといいます。

 

なので諸葛亮が魏に本格的に攻め込んだ時期は、

228年1月末~2月初めだという事ができるかと思います。

 

ですので正確には、漢中郡から魏へと兵を進めた時期は227年の末ごろだと言えそうですね。

そして正月到来で油断している魏へ攻撃を仕掛けたという流れでしょう。

 

ちなみにこの記事の本題でもある孟達に関する逸話は

諸葛亮の誘いに迷う孟達

横山光輝三国志(52巻20P)より画像引用

 

諸葛亮は魏を討つべく漢中へと軍を進めたわけですが、

ここで一旦軍を休ませており、この翌年である228年に魏へ攻撃をしかけています。

 

この際に新城太守であった孟達に反乱を起こさせるように画策したわけです。

 

 

正確には諸葛亮が南蛮討伐から帰還中である225年に、

魏の降将である李鴻から孟達の話を聞いてから動き出したような形になります。

 

このことは「蜀志」費詩伝に記録が残されています。

李鴻が諸葛亮に申すには、自らが孟達を訪ねた際に、

李厳と仲違いして魏へと降ってきた王沖が孟達の元に訪ねているタイミングだったようで、

 

この時に王沖は『「かつて孟達殿が魏へと走った際に、

諸葛亮が孟達殿の妻子を殺害しようとしたことがあったけれども、

劉備様が止めたことで殺害されずに済んだものです。」と孟達に語っておりました。

 

しかし孟達殿は王沖の言葉を信じず、諸葛亮殿に対して敬意を表しておいででした。』

と諸葛亮に語った逸話が残されています。

 

 

李鴻が諸葛亮にこのことを語った際に、費詩と蒋琬も諸葛亮の側にいたわけですが、

諸葛亮が孟達に手紙を書くことを決めたといいます。

 

しかしこれを聞いた費詩は裏切り者である孟達に手紙を書くことを反対しますが、

諸葛亮が費詩の言葉に耳を傾けることはありませんでした。

 

これが「蜀志」費詩伝に書かれてある内容ですが、この時から孟達の調略に動き出し、

最終的に反乱せざるを得ない状況まで、孟達を追い込んだといった形です。

 

「晋書」宣帝紀を見る限りは、孟達自身も魏に反乱を起こすか悩んでいた為に、

なかなか動き出すことがなかった旨が記載されています。

 

 

また「晋書」宣帝紀以外に、「華陽国志」でも次のような孟達の言葉が残されています。

「司馬懿が滞在している宛県から洛陽県まで八百里あり、

洛陽県から新城郡までは千二百里も離れております。

 

なので司馬懿がそれから動き出したとしても、

実際に新城郡へ到達までに1か月ほどはかかるでしょう。」

 

このように司馬懿を甘く見ていたりと、なかなか動き出すことはなかったのです。

 

諸葛亮としても孟達に反乱を起こさせて、注意を孟達に向けさせたうえで、

諸葛亮は注意が更に薄れている西側からの侵攻を開始しようと考えていたのでしょう。

 

そしてこの時に呉にも魏の側面をついてもらう事も検討していたのだと思われます。

 

 

ちなみにですが孟達が蜀以外にも呉とも通じていたことは、

「晋書」宣帝紀や「華陽国志」に記録が残されており、

 

このことからもしかすると、孟達に対して蜀呉で援軍を送る事で持ちこたえさせるような構想が、

もしかすると諸葛亮の頭の中にあった事も考える事が可能です。

 

その場合はあくまで可能性ではありますが、以下の事を考えていた可能性があると思われます。

  • 諸葛亮の涼州方面への進出する。
  • 呉に魏を攻撃させる。
  • 新城太守である孟達に反乱を起こさせる(状況に応じて蜀呉の援軍派遣)。

 

 

ちなみに三国志演義では、諸葛亮の北伐開始後に孟達から寝返りたい旨の手紙が送られたように描かれていますが、

孟達の反乱後に諸葛亮が魏へと攻撃を開始したという流れになりますね。

諸葛亮の暗躍(情報漏洩)

なかなか反乱を起こしてくれない孟達に対して、

諸葛亮はおそらくイライラして強硬策に出ます。

 

この時に孟達は、魏興太守であった申儀との関係が悪化しており、

ここに諸葛亮は目を付けたわけです。

 

 

「三国志演義」では、孟達は司馬懿を甘く見過ぎており、

申儀・申耽など一緒に魏に降った者達に声を掛けたはいいものの、

 

魏に反乱を起こしたくないと考える申儀・申耽が裏で司馬懿と通じ、

司馬懿が予想だにしない八日というスピードで攻め込んできたみたいに描かれています。

 

 

だからこの印象を持っている人が多いかもしれませんが、

孟達が魏に降伏した際に従ったのは申耽の弟である申儀のみでした。

 

兄の申耽は劉封の元に留まっており、

その後、新城太守に任じられた孟達らによって攻められてから申耽は降伏しており、

 

降伏した申耽は申儀とは別の場所を守らされています。

上庸と離れた南陽郡の地を・・・

 

兄弟が敵になりつつも劉備に忠誠を尽くした申耽を申儀と共に前線においていては、

「また何らかの際に裏切る可能性も・・・」と考えていたのでしょう。

 

魏としては孟達と共に早々に降った申儀の方に信頼を置いていたのは間違いないですね。

だから孟達の新城と近い魏興を守らせたのでしょう。

 

 

そして孟達の話に戻すと、

諸葛亮はなにがなんでも孟達に魏を裏切らせるために、

 

「孟達は実は蜀と通じております。」

といった話を申儀の耳に入れるべく故意に仕掛けたのでした。

 

 

これは「晋書」宣帝紀に書かれてある内容ですが、

 

諸葛亮が郭模という人物を埋伏の毒として偽の降伏をさせ、

孟達の裏切りの話を申儀に伝えたと書かれているからです。

 

孟達との関係が悪化していた申儀は、

この郭模の話に疑いを持つこともなく、すぐに曹叡へと知らせていますね。

 

 

諸葛亮としては反乱をなかなか起こしてくれない孟達に対して、

失敗してもいいから反乱を起こさせる為に強硬策に出たのでしょう。

 

孟達の反乱がうまくいくにこしたことはないけども、

最悪失敗したとしても蜀にとっての痛手は全くないのですから、

 

反乱を起こさないぐらいなら、

反乱を起こさせて注意を東に向けてくれるだけでいい・・・

 

そんな考えでの策だったのでしょう。

反乱せざるをえなくなった孟達

横山光輝三国志(52巻47P)より画像引用

 

申儀の話を聞いた曹叡は、まず孟達の任を解いて洛陽へ来るように命じます。

 

 

実際諸葛亮と通じることを最後まで悩んでいた孟達は、

急遽洛陽への呼出し命令を受けて、諸葛亮と通じていることがばれたと判断したのでしょう。

 

孟達は227年の12月に追い込まれた形で反乱を起こします。

 

 

慌てて反乱を起こしただけに、

防衛準備などの前段階であり計画性がないものでした。

 

しかし孟達としては司馬懿が攻め込んでくるにしても1か月はかかると踏んでいただけに、

それまでになんとか防衛準備を整えられるだろうと考えていたわけですが、

 

司馬懿が僅か八日で攻め込んで来たものだから防衛準備も中途半端で孟達は慌てまくります。

 

 

ここで孟達が何故一か月もかかるかと推測していたかというと、

司馬懿が軍を動かすにしても、曹叡にまず許可を取ってからしか動かせないと踏んでいた為です。

 

 

しかし司馬懿は緊急を要することだったために、

 

許可を取る事よりも優先して孟達討伐の為に軍を進めたことで、

孟達の予想を大きく上回る日程で到着したわけです。

 

 

そして孟達と司馬懿の戦いが始まるわけですが、

 

そんな中で孟達の部下であった李輔や孟達の甥である鄧賢が孟達を見限り、

司馬懿と通じて城門を開けた為に、あっさりと孟達は討ち取られてしまったのでした。

 

 

劉璋を裏切り、劉備を裏切り、曹叡を裏切った孟達でしたが、

三国志演義では同時期に病死していた徐晃を矢で討ち取るという手柄を添えられてますね。

 

実際は徐晃は孟達と関係ない所で既に病死していますから、

あくまで三国志演義の話を面白くするために付け加えられたお話に過ぎません。

諸葛亮にとって使い捨てに過ぎなかった孟達

孟達の反乱は半月ほどであっさりと鎮圧されてしまいますが、

 

諸葛亮としては孟達の反乱こそ失敗したものの、

陽動という意味では十分な役割を果たしてくれたわけですから、

 

孟達の反乱は十分な役割を果たしたと思ったのではないでしょうかね。

 

 

まぁ失敗すると分かってて、わざわざ申儀の耳に入れたのでしょうから、

ある意味諸葛亮の計算通りだったと思います。

 

諸葛亮は孟達を使い捨てみたいな感じで、

「成功すれば尚よし、失敗してもまぁよし」とこんなところだったのでしょう。

 

 

実際新城は蜀と領地は続いていたので、

諸葛亮が本当に孟達を支援する気があったのなら、援軍を送っているはずですからね・・・

 

まぁ申儀が蜀との交通路を完全に封じていたために、

蜀は援軍を孟達の元へと送れなかったといったような記載も見られたりしますが、

 

諸葛亮が孟達を援護する為に援軍を送ったなんて記載はそもそも見られません。

むしろ「諸葛亮は孟達に援軍を送らなかった」と「蜀志」費詩伝に記録が残されています。

 

 

ちなみにですが、孟達が反乱を起こしたのが12月であり、

 

それから約2か月後に諸葛亮はやっと北伐を開始したという事を考えても、

やはり孟達に反乱を起こさせることだけが目的だったのでしょう。

 

正月到来を待ってるだけで全く救う気がないのですから・・・

 

 

そして孟達の死から少しして、諸葛亮は魏へと侵攻を開始したのですが、

街亭の戦いで敗れるまで、諸葛亮の思惑通り順調に第一次北伐は進んでいくこととなります。