諸葛亮の第一次北伐の際に登場してくる人物の中で、

 

「かませ太守」の一人として最も有名なのが

今回紹介する天水太守の馬遵ばじゅんだと思います。

 

 

「何故に馬遵が有名なのか!?」というと、

馬遵の部下に姜維がいることが最大の理由でしょう。

 

 

姜維は「三国志演義」の中で、

初めて趙雲を一騎打ちで破った武将ですし、

 

そして諸葛亮を初めて敗北させた人物でもありますからね。

馬遵(ばじゅん)

横山光輝三国志(50巻156P)より画像引用

 

馬遵の名が登場するのは諸葛亮の第一次北伐時でした。

この時に馬遵は天水太守を任されていました。

 

 

諸葛亮が事前調略していたこともあり、

南安郡・安定郡で民衆が反乱を起こしたわけですが、

 

それは天水太守であった馬遵も例外ではありませんでした。

 

 

そして諸葛亮が侵攻してきた際には、馬遵は各地の巡察をしており、

姜維・梁緒・梁虔・尹賞もお供をしていたといいます。

 

 

そんな中「諸葛亮の侵攻」と、

「各地で勃発している反乱の報告」報告を受けたわけですね。

 

これがきっかけとなって馬遵は、

部下である姜維・梁緒・梁虔・尹賞すらも信用できなくなったといいます。

 

 

そして馬遵は姜維・梁緒・梁虔・尹賞を見捨てる、

 

天水郡の中心都市であった冀県(冀城)に戻るわけでもなく、

そのまま上邽城へと逃げ出しています。

 

 

そして馬遵の行動に大きな混乱を起こしたのが姜維達であり、

馬遵を追って上邽城へと辿り着くのですが、

 

しかし馬遵が城門を開けることはありませんでした。

 

 

 

そこで姜維達は冀県へと戻っていったのですが、

 

馬遵からの使者が事前に行っていたのかは不明ですが、

「冀県でも城門が閉ざされたままで入城することができなかった」といいます。

 

 

完全に進退に困った姜維達は途方に暮れ、

最終的に蜀漢へと降っていく流れになったのでした。

 

 

 

ただ「魏略」に書かれてある内容は、

上記と全く異なります。

 

そもそも馬遵は雍州刺史であった郭淮に従って、

各地を巡察を行っていたことになっており、

単独で巡察を行っていたわけではありません。

 

確かに天水太守であった馬遵が、

単独で各地を巡察するといった表現は疑問が残る書き方ですし、

その方がしっくりきます。

 

 

また姜維が馬遵に対して、

「冀県に戻りましょう!」と問いかけると、

 

馬遵は「もう誰も信用できない!!」と言葉を返し、

そのまま上邽城へ向かったと書かれています。

 

何故その行き先が上邽城なのか?」というと、

雍州刺史であった郭淮の行き先が上邽城だったからです。

 

だから「馬遵も郭淮に従う」という単純な選択をしたのでしょう。

 

 

そしての馬遵に捨てられる形となった姜維達ですが、

「冀県に普通に入城できた」というだけでなく、

 

「むしろ歓迎された」といったような記載が残っていたりしますので、

完全に矛盾していたりします。

 

 

そして姜維達は冀県の者達と話し合って、

「最終的に諸葛亮に降った」という感じで書かれてあります。

 

私としては正史にある記述よりも、

「魏略」に書かれてある内容の方が自然な気がします。

 

 

正史の方の意味だと、

全くに近いほどに意味が分かりませんからね。

 

馬遵は姜維達から逃げる形で上邽城に行ってるわけですから、

冀県に城門を閉じるように命じる時間もないでしょうし、

 

とにかく色々と意味が分かりませんから・・・

 

 

ちなみに馬遵に関しての記録はここで終了しています。

 

ただ「魏志」張既伝には、

「逃亡を試みた天水郡と南安郡の太守は罰せられた」

という記録がある為、処罰こそ受けたものの、

そのまま魏に仕えたのと考えるのが一般的かなと思います。

 

 

ただその後に歴史の表舞台に登場してないことを考えると、

 

それから間もなくして亡くなったか、

処罰内容が免官などだった可能性もあるかもしれませんね。

姜維 -最後の最後まで蜀を想って足掻き続けた将軍-

馬遵が冀県でなく上邽に入ったのか?

「馬遵が天水郡の中心都市であった冀県に戻らず、

なぜ上邽の城に入ったのか!?」という点ですが、

 

巡察中に諸葛亮の侵攻を聞いた馬遵は、

この時に郭淮らと巡察を共にしており、

 

「雍州刺史の郭淮に従って、

上邽に合流したからだ」と書かれてあります。

 

馬遵の立場的に言えば、

冀県に戻るのが当たり前ですからね。

 

このあたりは上の方でも述べたとおりです。

 

 

その後の郭淮は上邽城で蜀の軍勢と戦っていくこととなりますし、

 

街亭の戦いが行われた際も、

郭淮は上邽城を拠点に戦っていいますからね。

 

 

ただこの場合は、

馬遵も郭淮に従って戦っているわけですから、

 

天水郡を結果的に捨てた形にはなったものの、

「処罰を課せられた」というのも少し疑問点はわいたりします。

 

受け取った情報から言っても、

天水郡でも既に民衆の反乱が起こっている可能性十二分にあったのですから・・・

 

 

ただこのあたりの事は「正史」にも「魏略」にも記載されている内容ではなく、

あくまで自分が上邽城へと入った後の馬遵に対しての推測ではあります。

 

何故ならその後に馬遵の名が登場することがないからですね。

 

 

 

ちなみにその後、

街亭の戦いで馬謖が張郃に敗れると、

 

郭淮は列柳城に滞在していた高翔を打ち破っています。

生涯をかけて蜀と羌族と戦い続けた郭淮

姜維はもともと蜀に帰順するつもりだった?

「馬遵が郭淮に従って上邽に赴いた」とした場合、

馬遵と巡察していた姜維・梁緒・梁虔・尹賞の四名も、

上邽に入ってないことが不思議です。

 

「魏略」では、

姜維が冀県に戻るように説得しようとしたけれども、

 

「最後まで聞き入れられることがなかった。

それだけでなく姜維達まで疑われた!」とあります。

 

ここで私が思うには、姜維達は冀県ごと、

「諸葛亮に寝返る算段が付いていたんではないか?」と思うわけです。

 

 

 

この時に注目したいのが、

姜維の天水郡での地位です。

 

姜維は「中郎参天水郡軍事」となっていたことから、

天水郡の兵士らを指揮できる立場にありました。

 

またこの地位は姜維が自ら望んだものではなく

「天水郡から強制的にお願いされたものである」という点です。

 

 

そんな姜維に対して馬遵が、

「誰も信用できない!」なんて普通言いますか!?

 

明らかに不自然ですよね!!

 

 

そもそも天水郡の民衆が既に諸葛亮に心を寄せている状況だったとして、

やはり「姜維にいたるまで信用できない!」なんて言うのはおかしいと思います。

 

ましてや「兵士を指揮できる権限」を与えているという事は、

信用していなければまず任命できませんから・・・

 

むしろ蜀の勢力と戦う上で、

姜維の協力は必須事項のようなものです。

 

 

その点から浮かび上がることとして、

馬遵が郭淮に従って上邽へ向かう決断をした際に、

 

過剰なまでに何度も何度も、

冀県に戻るように姜維が説得してきたことで、

 

馬遵の中で姜維に対する疑いが芽生えたのではないでしょうか!?

 

 

「姜維は既に冀県のやつらと話がついており、

 

私を殺害(捕縛)する為に、

しつこく冀県に戻るように言ってるのではないか!?」

みたいな馬遵の心境ですかね。

 

 

実際に馬遵が報告を受けた段階で、

 

南安郡・安定郡だけでなく、

天水郡でも既に反乱を起きている状況は聞いていたはずですから・・・

 

 

 

ただ馬遵のその危惧は、

実際にあたっていた可能性があるという点です。

 

 

もし本当に馬遵が疑いを持つほどに、

「姜維が冀県に戻る事を説得してきていた」としていたらです。

 

既に通じていた場合、もしくは通じようとしていた場合、

天水太守であった馬遵を捕獲しているかどうかは結構大事な事だったりしますからね。

姜維が馬遵を拘束したいと考えていた理由は?

横山光輝三国志(51巻40P)より画像引用

 

このあたりは記載があまりに少ないために、

「上記の説であっていた」という場合の話になっていきますが、

 

姜維が馬遵を捕縛(殺害)したかったのは、

馬遵が天水太守であったというのが一番大きな理由でしょう。

 

 

ただそれだけではなく、天水太守を自由にさせていないことで、

色々と動きやすいのも考えていたのだと思います。

 

 

例えば関羽に呼応する形で、

反乱を起こした侯音という人物がいました。

 

侯音は宛城を制圧することに成功し、

また南陽太守であった東里袞とうりこんを捕らえています。

 

 

ここでは長くなるので詳細は控えますが、

 

侯音が反乱をした際に、

「東里袞を解放してあげた事が裏目」に出て、

結果的に反撃を受けてしまっています。

 

他にもこういう事例は当時の前例としていくつかあります。

 

 

姜維は確実にそれらの事例も知っていたでしょう。

 

だからこそ太守を自由にしていることで、

自分達に不利に働く点も多くあるという事を理解しており、

「確実に捕らえておきたい!」という気持ちも別にあったのだと思います。

 

 

しかし姜維に疑いを持った馬遵は冀県に戻らず、

郭淮に従って上邽城へと向かった事で、

 

姜維は仕方なく、最終的に冀県の者達と話し合って、

そのまま諸葛亮に帰順したという流れになったのかなとも思ったりするわけです。

 

長らく述べてきましたが、本当に姜維が諸葛亮に通じていたとして、

その真実は本人しか知る由はありませんね。

第一次北伐で降伏した梁緒・梁虔・尹賞のその後の人生