「呉」を建国した孫権

229年に「呉」の皇帝に即位した孫権は、
「大皇帝」という諡名を貰うほどの大人物でした。
若かりし頃に父親であった孫堅の死、
また若くして亡くなってしまった兄の孫策、
その跡を引き継いだのが孫権であり、
赤壁の戦いに始まり、濡須口の戦い、夷陵の戦い、三方面の戦いと、
多くの危機的状況を乗り越えてきた人物でもありました。
だからこそ死後に「大皇帝」という諡名が与えられたのでしょうね。
ただ晩年の孫権はというと、それまでの「名君」とは言えない程に、
数々の失態を繰り返し「迷君」となっていくこととなります。
その中でも「最大の過ち」と言ってよいのは「二宮の変」でしょうね。
「二宮の変」により国が二つに分裂してしまい、
最終的に誰も得しないという状況にまで陥ってしまいます。
その中で多くの忠臣が命を落としていますし、陸遜もその犠牲となった一人です。
また今回の話である日本へ侵略しようとしたという逸話は、
そんな「迷君」とも言われる時代の孫権に足を突っ込み始めた時の話になりますね。
孫権の日本・台湾への侵略行為

「呉志」呉主伝には、次のような記述が残っています。
| 二年春正月、魏作合肥新城。詔立都講祭酒、以教學諸子。
遣將軍衞温・諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。 亶洲在海中、長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、求蓬萊神山及仙藥、止此洲不還。 世相承有數萬家、其上人民、時有至會稽貨布、會稽東縣人海行、亦有遭風流移至亶洲者。 所在絶遠、卒不可得至、但得夷洲數千人還。 |
最初の一文は黄龍二年のことなので、
現在で言うところの230年の時の話だと書かれており、
ここは関係がない文書ですが、「魏が合肥新城を作った」という話がされています。
そして同じ年の230年に、
「孫権が衛温と諸葛直に一万人の兵士を預け、
夷州・亶州を探索させた。」という話しが書かれてあります。
一般的に「夷州」は現在の台湾だとされており、
もう一つの「亶州」が現在でいう所の日本だと言われています。
ただ沖縄であったり、種子島のことだという説もあります。
夷州に関しては台湾でほぼ確定なのですが、
夷州が日本全土という感じというより、一部地域を指していた可能性があるという事ですね。
それぐらい当時の日本である倭国は未知の国で、
分かっていないことも多かったのです。
「魏志倭人伝」からも分かるように卑弥呼の時代になりますね。
ただ国内ですら安定していない時期であり、
孫権自身も皇帝となり、「呉」を建国したばかりという事もあって、
多くの臣下が孫権の考えに反対をしたといいます。
その代表格とも言える者達が、重臣である陸遜や全琮でした。
今回の雲を掴むような話に対して、
陸遜は次のように孫権に進言した話が残っています。
「遠方の地を侵略、そして統治することの延長線上に、
中華統一の足掛かりにしようとされているのかもしれませんが、
どのような視点から今回の孫権様の意見を解釈しても、
メリットが一つも見いだせないのです!」
しかし孫権が陸遜の言葉に耳を傾けることはなく、
上でも述べたように衛温・諸葛直に一万人の兵士を預けて実行に移したのでした。
日本・台湾への侵略結果

孫権の命令を受けた衛温・諸葛直でしたが、
結果は陸遜らが反対していたように散々な結果に終わってしまいます。
遠方の亶州(日本)は論外の話として、
比較的近場であった夷州(台湾)ですら大きな戦果をあげることもできず、
それ以上に大きな損害を受けたといいます。
ただ夷州で少なからずの戦果はあげられており、
「数千人の民衆を攫ってきた」と書かれています。
この時代はとにかう人口が少なく、
「魏」「呉」「蜀」それぞれに人の確保に力を注いでいたのは事実なんですよね。
特に蜀はこの点で非常に苦しんでいたのは周知の事実であり、
一方の呉もまた南方地域(現在の東南アジア地域)であったり、
人を確保する為にも山越族討伐に力を入れていたのも事実でした。
そういう意味では少なからずの成果だったと言えるでしょう。
まぁそれと引き換えに、
兵の大半を失ってしまっていますが・・・
忠実な兵士と引き換えに、
言葉も通じるか不明のただの民衆を攫ってきたレベルでは、
本当に本末転倒の結果だったと思います。
そして何より悲惨だったのが今回の命令を受けた衛温と諸葛直で、
二人は孫権の怒りを買って処刑されてしまう事となります。
亶州に関する正史の他の記述

「呉志」呉主伝には、
「夷州・亶州に侵攻させた」という文章以外に、
次のような記載が続けられる形で残っていたりします。
おそらく孫権が夷州・亶州へと兵を送ろうと検討した裏側には、
こういった理由があったのだと思います。
上にも書いている「呉志」呉主伝の中の文章ですが、
それが描かれてあるのが下線で引いている場所になります。
| 二年春正月、魏作合肥新城。詔立都講祭酒、以教學諸子。
遣將軍衞温・諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。 亶洲在海中、長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、求蓬萊神山及仙藥、止此洲不還。 世相承有數萬家、其上人民、時有至會稽貨布、會稽東縣人海行、亦有遭風流移至亶洲者。 所在絶遠、卒不可得至、但得夷洲數千人還。 |
書かれてある内容を分かりやすく訳すと、
『秦の始皇帝は「不老不死」を求める為に徐福を派遣した。
そしてその徐福の子孫が住んでいる島があり、
その島の住人が時々会稽の地へとやってきて布の商いをしていた。』
そしてそれに続けて次のようなことも書かれています。
「会稽の者達が漁をしていた際に、
不幸にも台風の被害にあってしまって、
亶州へと流れ着いたことがあった」と・・・
これらのことを誰かから聞いていた孫権が、
「確実に人が住んでいる新たな土地がある!
うまくいけばその者達を利用して、
魏の背後を襲わせることも可能になるのではないか!?」
実際に遼東半島の公孫淵に「燕王」の位を進呈したりして、
色々と孫権も試行錯誤していましたしね。
それが夷州・亶州へ侵攻させた三年後の話になりますから、
今回の失敗が公孫淵へと目を向けるきっかけとなったのかもしれません。
魏が強大過ぎたからこそ、
背後を襲ってくれる存在を求めていた可能性は大いにあると思います。
そのあたりは孫権も前例があり、
夷陵の戦いに敗北した劉備がこの世を去るわけですが、
その際に益州南部の雍闓を支援して、
大規模な反乱を起こさせていますから・・・

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の十万本の矢の逸話は本当にあったものか?-100x100.png)
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