鄧艾が謀反の罪で捕縛される
蜀討伐を成し遂げた鄧艾がまず取り掛かった事は、
益州を安定させるように尽力することでした。
劉禅の降伏を受け入れてからも民衆から一切略奪を行わず、
独断で劉禅を行驃騎将軍に任命し、
劉禅の臣下をこれまで通りの任務を与えて厚遇しています。
鄧艾は蜀を滅ぼした次の標的を呉に定めており、
益州を安定させるとともに長江を下って呉へ攻め込む為の軍船作成を開始したのです。
そして呉へ攻め込んだ際に、単独で勝つ見込みが少なくなった孫休が、
劉禅等の待遇の噂を聞いて降伏する可能性を見ていたのです。
その為に益州の者達を刺激しなかったばかりか大変な厚遇をしたのでした。
しかし独断専行があまりにひどかった為に、
鍾会によって「謀反の疑いあり」と司馬昭に報告された挙句に捕らえられてしまいます。
蜀平定の第一功労者であった鄧艾でしたが、
謀反人として司馬昭の元へと護送される事になるとは想像すらしていなかったでしょうね。
姜維・鍾会の反乱計画&失敗
劉禅が降伏したことで最初こそ降伏しなかった姜維も、
最終的に観念して鍾会の軍門に下ります。
鍾会は「降るのが遅すぎたのではないか!?」と問うと、
「これでも早すぎたぐらいだ!」と姜維は返したといいます。
この受け答えに感心した鍾会は姜維を大変気に入ります。
そして姜維は鍾会と表向き仲良く付き合うのですが、
鍾会が蜀討伐の大手柄を立てた鄧艾に嫉妬しており、一物の野心を持っている事に気づきます。
姜維は鍾会をそそのかして、益州で独立させる事を企てます。
その後は隙を見て鍾会を殺害して劉禅を再度迎えようというものでした。
鍾会からしてみれば、
「うまくいけば天下を取ることもできる!
うまくいかなくても劉備ぐらいにはなることができるはずだ!!」といった感じだったのです。
姜維と鍾会はそれぞれの思惑を胸に秘め、
まず独立する際に二人の邪魔になる存在が鄧艾だったので、
鍾会・姜維は鄧艾を排除する計画を立てます。
上でも記載していますが、
鄧艾は独断専行で様々な事をやっていたので、
司馬昭に「鄧艾に謀反の疑いあり!」と報告し、鄧艾を捕らえられてしまったのです。
そして司馬昭の元へと護送される事に・・・。
しかしこの計画はずさんなものでもあったので、
最終的に情報が洩れたことで鍾会・姜維は討ち取られてしまいます。
鍾会・姜維を討ち取った事で、
鄧艾の部下だった者達が護送されている鄧艾を救い出されるのですが、
鍾会の命令で鄧艾を捕獲した衛瓘は、
鄧艾から恨まれていることを恐れて、兵を差し向けて鄧艾を殺害してしまいます。
蜀を滅ぼした鍾会・鄧艾の二人でしたが、
なんだかんだ二人とも殺害されてしまうとは皮肉な話です。
羅憲が最後の意地を見せる
劉禅が降伏したことで蜀は滅亡してしまったわけですが、
益州の西側に位置する永安城では、孤独な蜀将の羅憲の戦いがありました。
呉は蜀への援軍として出向いていた際に、
劉禅が降伏してしまった事で蜀が滅んだことを知ります。
そこで少しでもおこぼれに預かろうと、
陸遜の息子である陸抗に永安城を奪い取るように命令が下ったのでした。
もともと羅憲は中央で働いていましたが、
黄皓と対立していた一人であり、
黄皓に煙たがれる形で左遷させられていた人物でもあります。
陸抗は羅憲に降伏するよう呼びかけますが、
泥棒まがいの事をする呉軍に降伏する事は「恥以外の何物でもない!」と考えた羅憲は、
劉禅が降伏したことで援軍も期待できない中で、兵士を鼓舞して奮闘し続けました。
陸抗と羅憲は数倍の兵力差があったものの、
羅憲は最後の最後まで永安城を守り抜いたのです。
このことを知った司馬昭は、羅憲を大きく評価しました。
「こいつならば信用できる」と思われた羅憲は、
「元蜀臣で推薦できるものを教えよ!」と言われるほどだったといいます。
羅憲は多くの者達を推薦しますが、
羅憲が推薦した者は全員採り立てられることになったわけですね。
ちなみにですが、
三国志正史を残した陳寿もまた羅憲によって推薦された一人だったのです。
もしかするとこの時に羅憲が永安城を守り抜かなかったら、
もしも羅憲が陳寿を推薦する事がなかったら、
「三国志」は陳寿によって記載されず、
今日に三国志正史が伝わることもなかったかもしれませんね。
https://daisuki-sangokushi.com/2020/04/01/%e8%9c%80%e6%bc%a2%e6%9c%80%e5%be%8c%e3%81%ae%e6%84%8f%e5%9c%b0%e3%82%92%e8%a6%8b%e3%81%9b%e3%81%a4%e3%81%91%e3%81%9f%e6%b0%b8%e5%ae%89%e3%81%ae%e5%ae%88%e8%ad%b7%e7%a5%9e%e3%80%81%e7%be%85%e6%86%b2/
司馬昭の死去
263年に蜀を滅ぼした事で、司馬昭の権力が更に増していくことになります。
曹操によって形骸化した漢帝国と全く同じように、
形骸化していた曹一族に代わり、
司馬昭が皇帝に即位しようとした矢先に病死してしまいます。
そして司馬昭の遺志を継いだのが司馬昭と王元姫の子であり、
「晋」を建国する事になる司馬炎でした。
司馬昭はもともと王元姫との間にできていた司馬攸を兄の司馬師の養子に出しており、
兄の系統が正統だと考えていた司馬昭は、
自分の息子でもあるし、司馬師の息子にもなる司馬攸を跡継ぎに考えていたようです。
しかし周りからの反対にあった形で司馬炎が、
最終的に跡を継いだという形でした。
これにより司馬炎は、司馬昭から晋王・相国を引き継ぐことになったわけです。