劉備、漢中奪取へ動く

建安20年(215年)、

曹操は漢中を支配していた張魯を降伏させ、漢中郡を魏の勢力下へ組み込みました。

 

漢中は関中と益州を結ぶ軍事上の要衝であり、

「益州の北門」とも呼ばれる極めて重要な土地でした。

この地を失えば、成都を中心とする益州は常に北方からの脅威にさらされることになります。

 

一方、この頃の劉備はすでに益州を平定していました。

しかし、荊州の領有権をめぐって孫権と対立しており、両国の関係は急速に悪化していました。

 

そんな中、曹操が漢中を制圧したという知らせが届きます。

劉備は曹操こそ最大の脅威であると判断し、孫権との講和を成立させると、漢中奪還へ向けて全力で動き始めました。

 

この戦役では、黄権が益州防衛の戦略を立案し、法正が軍師として劉備を補佐しました。

さらに黄忠・魏延・張飛らの名将たちが前線で奮戦し、曹操軍を迎え撃ちます。

 

一方、曹操軍では夏侯淵・張郃ら魏を代表する名将たちが漢中防衛を担っていました。

戦いは一年近くに及びましたが、定軍山の戦いで黄忠が夏侯淵を討ち取るという大戦果を挙げます。

夏侯淵の戦死は曹操軍に大きな衝撃を与え、戦局は一気に劉備軍へ傾きました。

 

その後、曹操自ら援軍を率いて前線へ赴きましたが、

劉備軍を崩すことはできず、最終的には漢中奪回を断念して撤退しています。

 

この漢中争奪戦は、赤壁の戦いを除けば、

劉備が自ら主導して曹操軍に決定的な勝利を収めた最大の戦いと言ってもよいでしょう。

劉備、漢中王に即位

建安24年(219年)、漢中を手中に収めた劉備は、

群臣の推戴を受けて「漢中王」に即位しました。

これは、曹操が「魏王」に就任したことへの政治的な対抗措置でもありました。

 

劉備は、自らを後漢皇室の一族として位置付け、

あくまでも漢王朝を支える正統な存在であることを天下へ示そうとしていたのです。

 

そのため、漢中王への即位には、

「漢王朝を支える正統な勢力は自分である」という強い政治的意思が込められていました。

 

さらに漢中は、前漢の高祖・劉邦が「漢王」に封じられた歴史ある土地でもあります。

劉邦はこの漢中を拠点として項羽を打ち破り、漢王朝を建国しました。

 

そのため、劉備がこの地で漢中王を名乗ったことは、

単なる爵位の獲得ではなく、「漢王朝再興」という理想を天下へ示す象徴的な出来事でもあったのです。

関羽、樊城を包囲する

劉備が漢中王となると、荊州を守っていた関羽も北上を開始しました。

関羽は樊城・襄陽方面へ進軍し、曹仁が守る樊城を包囲します。

 

曹操は于禁・龐徳に援軍を命じましたが、

この頃、漢水が大洪水を起こし、于禁軍七軍は壊滅的な被害を受けました。

于禁は降伏し、龐徳は最後まで降伏を拒み、処刑されています。

 

この勝利によって関羽の名声は天下に轟きました。

「蜀志」関羽伝には、「威震華夏(その威名、中国全土を震わせた)」と記されており、

関羽の勢いがいかに凄まじかったかがうかがえます。

 

さらに各地の豪族や反乱勢力も関羽に呼応する動きを見せたため、

曹操は一時、都である許から遷都まで検討したと伝えられています。

荊州陥落と関羽の最期

しかし、関羽が樊城攻略に兵力を集中させたことで、荊州の守備は手薄になってしまいました。

この機を逃さなかった孫権は、曹操と連携しながら呂蒙に荊州攻略を命じます。

 

呂蒙は病を装うなど巧妙な策を用いて関羽を油断させ、

白衣をまとった兵士を商人に偽装して長江を遡らせる奇襲を成功させました。

 

荊州を守っていた南郡太守・糜芳と公安都督・士仁(傅士仁)は抵抗することなく降伏します。

二人は以前から関羽との関係が悪化しており、処罰への不安も降伏の一因になったと考えられています。

 

一方、関羽も徐晃の援軍によって樊城攻略に失敗し、包囲を解いて南へ撤退し、麦城へと籠ります。

孤立した関羽は麦城から脱出したものの、孫権軍に捕らえられ、長男・関平とともに処刑されました。

この関羽の戦死によって、劉備は荊州を完全に失うことになります。

三国志の巨人・曹操、逝く

建安25年(220年)、曹操は洛陽で病没しました。享年65でした。

正史には死因について詳しい記録はなく、病死とされるのみです。

 

華佗との逸話や頭痛、さらには虫歯が原因だったという説は、

後世の伝承や研究による推測であり、史実として断定できるものではありません。

 

一方で、曹操が遺した遺言は非常に現実的なものでした。

戦時下である以上、長期間の服喪は不要とし、官吏や将兵にはこれまで通り職務を続けるよう命じています。

 

また、自らの墓は質素に築き、副葬品も最小限にするよう命じました。

この質実を重んじる姿勢は、最後まで曹操らしい生き方だったと言えるでしょう。

曹丕、魏王朝を建国する

曹操の死後、嫡男の曹丕が魏王位を継承しました。

同年、献帝から正式に皇位の禅譲を受け、新たに魏王朝を建国します。

これによって約四百年続いた漢王朝は終焉を迎えました。

 

正史では、献帝が正式な儀礼に従って皇位を譲ったことが記されており、

演義などで描かれるような「脅迫して退位させた」という記述は見られません。

 

 

もっとも、当時は曹氏が軍事・政治の実権を完全に掌握しており、

献帝に現実的な選択肢がほとんど残されていなかったことも事実でした。

 

なお、曹丕は即位後、父・曹操が復活させていた丞相制を廃止し、再び三公制を整備しています。

これは、一人の臣下へ権力が集中することを避けるためだったと考えられています。

劉備、漢王朝の正統を継承する

曹丕が魏王朝を建国したという知らせを受けた劉備は、大きな衝撃を受けました。

長年掲げ続けてきた「漢王朝復興」という理想が、大きく揺らぐ出来事だったからです。

 

さらに、その前年には義弟ともいえる関羽を失い、荊州も失っていました。

劉備にとって、この時期は生涯でも最も苦しい時期の一つだったと言えるでしょう。

 

しかし群臣たちは、「漢王朝の正統はなお劉氏にある」として、劉備へ皇帝即位を強く勧めました。

 

建安26年(221年)、劉備は成都で皇帝に即位し、国号を「漢」と定めます。

ここで重要なのは、劉備自身は「蜀」という国を建てたわけではないという点です。

劉備はあくまで後漢を継承した「漢」の皇帝を名乗っていました。

 

後世の歴史家が前漢・後漢と区別するために、

「蜀」あるいは「蜀漢」という名称を用いるようになったのです。

ちなみに末っ子のという意味を持つ「季」を頭につけて、季漢と呼ばれる事もあります。