劉備崩御&蜀漢の再出発

章武三年(223年)春、

夷陵の戦いで大敗を喫した劉備は、永安宮にあって病に伏していました。

蜀漢にとって、まさに存亡の瀬戸際です。

 

夷陵の敗戦によって多くの将兵を失い、劉備自身も重い病に倒れていました。

さらに、呉との関係も完全に修復されたわけではありません。

そんな中、劉備は成都から諸葛亮を永安へ呼び寄せ、国家の後事を託します。

 

このとき劉備が諸葛亮に語った言葉は、あまりにも有名です。

「君の才は曹丕の十倍である。必ずや国を安んじ、ついには大事を成し遂げるであろう。

もし嗣子が補佐するに足る人物ならば、これを補佐してほしい。もし才がなければ、君が自ら決めよ。」

 

諸葛亮は涙を流し、

「臣はあえて股肱の力を尽くし、忠貞の節を示し、死をもってこれを継ぎます」

と答えました。

 

さらに劉備は劉禅に対して、

「汝は丞相とともに政務にあたり、これを父のように敬いなさい」

と命じています。

これは『三国志』諸葛亮伝に明記されている言葉です。

 

そして、劉備が亡くなった後、17歳の劉禅が成都で即位しました。

若き皇帝の前に残されたものは、決して安泰な王国ではありませんでした。

「国を立て直す」 -諸葛亮が最初に向き合った現実-

劉備が掲げた大義は、漢王朝の再興です。

しかし、現実の蜀漢は魏・呉と比較して国力に乏しく、しかも夷陵の大敗によって大きな打撃を受けていました。

 

ここで諸葛亮が最初に取り組まなければならなかったのは、北伐ではありません。

まず、蜀漢そのものを立て直すことでした。

 

そして、そのために避けて通れなかったのが、呉との関係修復です。

劉備は生前、孫権との和平を模索しており、夷陵の戦いの後には孫権側から和睦を求める動きも出ており、

表向き上は和議が成立しているといった状態ではありました。

 

劉備の死後、諸葛亮はこの流れを受け継ぎます。

 

『三国志』には、

「南中の諸郡がことごとく反乱したが、諸葛亮は大喪を受けたばかりであったため、

すぐに兵を出すことはせず、まず呉へ使者を送り、和親を結んで、友好国とした」とあります。

 

つまり諸葛亮の政権運営は、

「呉との関係を修復する」
→「国内を安定させる」
→「国力を回復する」
→「魏に対する軍事行動を準備する」

という順序で進められたと見ることができます。

 

その外交を担った人物の一人が鄧芝でした。

鄧芝は後に呉へ派遣され、孫権との関係改善に尽力します。

蜀と呉は再び同盟関係を築き、魏に対抗するための共同戦線を形成していくことになります。

(諸葛亮が鄧芝を孫権のもとへと送り、その後に孫権は張温を蜀へと派遣したことで両国の関係は良好に向かいました。)

 

夷陵で敵として激突した蜀と呉は、今度は魏という共通の敵を前に、再び手を結んだのです。

南中の反乱 -蜀漢の背後に燃え上がった火-

しかし、外交だけで国を立て直すことはできません。

蜀漢の南方では、相次いで反乱が起こっていました。

益州郡では豪族の雍闓が反乱し、越巂では高定、牂牁では朱褒が蜀漢に背きます。

 

しかも雍闓は呉と通じています。

蜀漢にとって南中の反乱は、単なる地方反乱ではありません。

 

背後から呉の影響力が入り込む可能性もある、極めて危険な問題だったのです。

そこで諸葛亮は、国内の情勢を整えたうえで、自ら南征に乗り出します。

諸葛亮、南中へ -「七擒七縦」の真実-

建興三年(225年)、諸葛亮は軍を率いて南中へ進みます。

この遠征によって、蜀漢は順調に南中の反乱を鎮定していきます。

 

そして後世、もっとも有名になったのが、「七擒七縦」の物語でしょう。

 

『三国志演義』では、諸葛亮が孟獲を七度捕らえ、七度解放します。

「孟獲はそのたびに敗れ、最後には諸葛亮の徳に心服し、二度と反乱しないと誓った。」

非常に美しい物語です。

 

しかし、ここは正史と演義を明確に区別する必要があります。

「蜀志」諸葛亮伝には、「七度捕らえて七度放した」という以前に、孟獲という人物すら登場していません。

 

七縦七擒の逸話が残されているのは、裴松之が注釈を加えた『漢晋春秋』に残されている逸話であり、

他には華陽国志に書かれている逸話になります。

 

一方で、南中平定後、「蜀志」諸葛亮伝には、「軍資所出、國以富饒。」とあり、

蜀漢が軍資を得て国力を回復させていることは重要です。

 

つまり南征は、単に反乱を鎮めただけではありません。

蜀漢が再び国家として立ち上がるための、重要な転機だったのです。

 

 

なお、馬謖が諸葛亮に、

「城を攻めるのは下策、心を攻めるのが上策」

と進言したという話も有名ですが、

 

これも陳寿著の『三国志』原文にある内容ではなく、

「蜀志」馬良伝(付馬謖伝/裴松之注「襄陽記」)に残されている話になります。

 

これらの多くを採用されて描かれたのが三国志演義です。

南中を平定し、蜀漢は再び前を向く

南中の平定を終えた諸葛亮は、成都へ戻ります。

ここから蜀漢は、ようやく次の段階へ進みます。

 

『三国志』には、南征を終えた諸葛亮が、

「軍を整え、武を講じ、大挙する時を待った」と記されています。

その「大挙」が、やがて北伐へとつながっていくことになります。

 

劉備が残した「漢室復興」という大義を実現するためには、まず蜀漢自身が生き残らなければならない。

諸葛亮はその現実を、誰よりも理解していたのでしょう。

孔明と孟獲(南蛮討伐/七縦七擒)

曹丕崩御

蜀漢が再建への歩みを進めていた頃、魏では大きな変化が起こります。

魏の初代皇帝・曹丕が病に倒れたのです。

 

曹丕が魏王を継いだのは建安25年(220年)。

その後、漢の献帝から禅譲を受けて皇帝となり、魏を建国しました。

この時に元号も「建安」から「黄初」に切り替えられています。

 

しかしその治世は長く続きませんでした。

黄初七年(226年)、曹丕が崩御し、子の曹叡が跡を継ぎました。

 

曹叡は幼い頃から、祖父・曹操に特別に目をかけられていたことが、

「魏志」明帝紀(裴松之注「魏書」)は伝えています。

曹叡は幼い頃から、すでに人並みならぬ風格を備えていたと伝えられています。

生まれて数年ほどで、堂々とした立ち居振る舞いを見せ、その姿を見た祖父・曹操(武皇帝)も大いに感嘆したといいます。

曹操は曹叡を特に可愛がり、まだその後継者としての地位が定まっていなかった時期から、

「我が家の三代目となるのは、この子であろう」

と期待を寄せていました。

そのため曹叡は、朝廷で宴会が開かれる際にもたびたび曹操に伴われ、侍中や近臣たちとともに曹操の側近くに侍ることを許されていました。

 

また、曹叡は学問を好み、物事をよく知る少年だったとも記録されています。

 

ただし、曹叡がすぐに皇太子となったわけではありません。

その最大の理由の一つが、母・甄氏の存在でした。

甄氏(袁熙の妻から曹丕の夫人へ)

甄氏は中山郡無極県の人で、父は上蔡令の甄逸です。

彼女はもともと袁紹の次男・袁熙の妻でした。

 

しかし建安九年(204年)、曹操が鄴を攻略すると、甄氏は曹丕に迎えられます。

そして甄氏は曹叡と、娘の東郷公主を産みました。

 

この点については、「魏志」文昭甄皇后伝が明確に記しています。

その後、曹丕が魏王となり、さらに皇帝となると、甄氏の立場は次第に悪化します。

曹丕は郭氏らを寵愛するようになり、甄氏は不満を漏らしたとされます。

 

そして黄初二年(221年)、甄氏は曹丕の命によって死を賜りました。

つまり、曹叡は母親を失った状態で成長することになったのです。

曹叡は本当に曹丕の子なのか?

曹叡についてしばしば語られる

「曹叡は本当に曹丕の子だったのか?」という大きな疑問(説)があります。

 

甄氏がもともと袁熙の妻であり、曹操が鄴を攻略した後に曹丕へ迎えられたことから、

「曹叡は実は袁熙の子ではないか」という説が後世に生まれました。

 

さらに『三国志』には、曹叡が崩御した際、「時に年三十六」と記されています。

ところが裴松之は、この年齢と甄氏が曹丕に迎えられた時期を照らし合わせると、年齢計算に矛盾が生じることを指摘しています。

 

このため後世の歴史家の中には、

「曹叡は袁熙の子だった可能性があるのではないか?」

と考える者が現れました。

 

ただし、ここは非常に重要な問題である事も事実です。

〈確定している正史の記録〉

  • 甄氏はもともと袁熙の妻。
  • 鄴が陥落した後、曹丕が甄氏を迎えた
  • 甄氏は曹叡の実母。
  • 『三国志』は曹叡を明確に曹丕の子として扱われている
  • 曹丕は曹叡を皇太子に立て、その後、曹叡が魏帝となった

 

〈史料上の疑問〉

  • 曹叡の年齢に関して計算上の問題がある。

 

これらのことから後世、「袁熙の子ではないか」という説が生まれました。

 

これは今後も決着する事がない記録ではあるかもしれませんが、

「曹叡の出生については後世に疑問が呈されているが、正史は曹叡を曹丕と甄氏の子として扱っている」

とする程度が最も適切な答えだと思われます。

 

また曹叡が曹丕の後継者となるまでには、少し複雑な事情がありました。

「魏志」明帝紀によれば、曹叡は十五歳で武徳侯となり、黄初二年(221年)には斉公、翌年には平原王となっています。

しかしそれに続けて、「母が誅されたため、後継者として立てられなかった」と記されています。

 

つまり、曹叡本人の能力に問題があったというより、

母・甄氏の処遇が曹叡の皇太子擁立に影を落としていたと考えることができます。

それでも曹丕の最晩年、黄初七年(226年)になると、病床の曹丕はついに曹叡を皇太子に立てます。

 

そして間もなく曹丕が崩御し、曹叡は魏の第二代皇帝となったのです。

二人の若き皇帝(劉禅と曹叡)

こうして、ほぼ同じ時代に二人の若き皇帝が国家を背負うことになります。

蜀漢では劉禅、魏では曹叡が即位しましたが、両者を取り巻く環境は大きく異なっていました。

 

劉禅は17歳で即位し、夷陵の大敗直後という非常に厳しい状況の中で帝位につきました。

そのため、諸葛亮が政務を全面的に支える体制が整えられます。

 

一方、曹叡も若くして即位しましたが、

魏には曹丕以来の強固な政治基盤があり、司馬懿・陳群・曹真・曹休ら、経験豊かな重臣たちがいたからです。

 

ただこの二人の若き皇帝が即位したことによって、三国時代は新たな局面へと突入し、

両国はそれぞれ国力を蓄えながら、次なる戦いに備えていくことになります。

 

やがて蜀漢では、諸葛亮が漢中へ進出し、ついに魏への北伐を開始します。

こうして、劉備の時代から託された「漢室復興」の夢は、劉禅の時代へと受け継がれていくことになるのです。