放浪・敗北・再起を繰り返した蜀漢の創業者

劉備 は後世、「仁徳の君主」「蜀漢建国者」として非常に有名になりました。

 

しかし正史である『三国志』(陳寿著)を見ると、

若い頃の劉備は長年にわたり安定した地盤を持てず、各地を放浪し続けた人物でした。

ただし「無能で弱小だった」というわけではありません。

 

むしろ、

  • 何度敗北しても再起する生命力
  • 人を惹きつける人格
  • 名士層との結び付き
  • 柔軟な外交能力

によって、乱世を生き残った人物として描かれています。

劉備の初陣

劉備は幽州涿郡涿県の出身です。

漢王室の一族を称していましたが、家は没落しており、裕福ではありませんでした。

父を早くに亡くし、母とともに暮らしていたとされます。

 

劉備は学者として著名だった盧植の門下で学びました。

この時、後に河北の有力群雄となる公孫瓚とも知り合っています。

つまり二人は同門の出身だったということになります。

 

 

そんな劉備ですが、184年に黄巾の乱が勃発すると、劉備も義勇兵を集めて討伐に参加しました。

この時に劉備に馬や資金を支援したのが豪商であった張世平や蘇双でした。

そしてこの時に、関羽や張飛らが劉備に従ったとされています。

 

ただ有名な桃園結義(桃園の誓い)は、三国志演義の創作です。

正史では、「三人は寝食を共にし、恩義は兄弟のようだった」と記されるのみです。

ただし苦労を共にする中で、劉備・関羽・張飛の結び付きが非常に強かったのは事実でしょう。

官職授与(県尉)と督郵事件

黄巾討伐後、劉備は安熹県尉になります。

ここで有名なのが「督郵事件」です。

 

演義では、張飛が横暴な督郵を鞭打ったことになっていますが、

「蜀志」先主伝には、督郵を辱めたのは劉備自身である事が残されています。

 

劉備が督郵に謁見を求めたけれども会ってくれず、

これに怒りを覚えた劉備が屋敷に押し入ると、督郵を縛りあげて杖(棒)で二百回叩いたという内容で、

督郵を暴行した上で、官を捨てて逃亡しています。

 

つまり若い頃の劉備は、かなり激しい気性があったということが読み取れるわけです。

 

その後、劉備は公孫瓚のもとへ身を寄せます。

公孫瓚は河北で袁紹と争っていましたが、劉備は公孫瓚配下として働き、平原相に任じられます。

 

ここで徐々に独自勢力を形成していきました。

陶謙と徐州

徐州牧の陶謙は、曹操の侵攻を受けます。

背景には、曹操の父・曹嵩が徐州で殺害された事件がありました。

曹操は報復として徐州へ侵攻し、大規模虐殺を行ったと正史に記されています。

 

陶謙は援軍を求め、この時に田楷と共に劉備が救援に向かいました。

この頃の劉備が率いた軍勢は小規模なものではありましたが、陶謙から高く評価されます。

やがて陶謙が病死すると、徐州の有力者たちは劉備へ州統治を委ねたのでした。

 

ちなみに余談ですが、陶謙のもとに残った劉備とは違い、

公孫瓚のもとへと帰還した田楷は約6年後にあたる199年(建安四年)に、

易京の戦いに敗れて討死、公孫瓚もまた自害して果てています。

 初めての本格的地盤(徐州)

徐州獲得は、劉備にとって大きな転機でした。

それまで放浪していた劉備が、初めて州を統治する立場になったのです。

しかし同時に、

袁術
曹操

など強敵に囲まれる危険地帯でもありました。

 

また呂布も董卓殺害後に流浪に流浪を重ね、

曹操の徐州討伐時に、留守であった曹操領を襲いますが、最終的に曹操に敗れます。

そして呂布は徐州へと落ち延び、劉備を頼ってきたわけですが、劉備は呂布を受け入れています。

 

しかしこの判断が致命傷となります。

呂布の裏切り&呂布の最期

劉備が袁術と戦っている隙に、呂布は徐州を奪取しました。

劉備は敗北し、呂布に従属する立場へ追い込まれます。

 

ただし呂布も完全には劉備を排除できず、両者は不安定な共存関係になりましたが、

最終的に劉備は追われる立場となり、劉備は曹操を頼って落ち延びていきます。

 

そして劉備は曹操と共に呂布討伐乗り出したのが下邳の戦いです。

呂布は身内を疑った事で後手後手の対応となり、曹操陣営の水計によって追い込まれていきました。

最終的に曹操に敗北して処刑されています。

①呂布と曹操の会話(命乞いと勧誘)

捕らえられた呂布は、全身を縄で固く縛られた状態で曹操の前に引き出されました。

呂布:「縛り方がきつすぎる。少し緩めてくれないか。」
曹操:「虎を縛るのだ、きつくしないわけにはいかないだろう。」

 

呂布は自分の命が惜しくなり、曹操に命乞いを兼ねた提案を持ちかけます。

呂布:「曹操殿、あなたが恐れていたのは私だけでしょう。
いま私は降伏しました。これからはあなたが歩兵を率い、私が騎兵を率いれば、天下を平定するなど簡単なことです。」 

 

曹操は呂布の桁外れの武勇を高く評価していたため、

この提案を聞いて「どうすべきか」と本気で処遇に迷い始めました。

 

②劉備の一言(処刑の決定打)

迷った曹操は、その場に同席していた劉備に「どう思う?」と意見を求めます。

ここで劉備は、呂布の息の根を止める決定的な一言を放ちました。

劉備:「明公(曹操どの)、呂布がかつて丁原や董卓に仕えながら、彼らをどう処したかをお忘れですか?」
(※丁原も董卓も、呂布を重用しながら、最終的に呂布の裏切りによって殺害されました。)

この言葉によって、曹操は「呂布を配下にすれば、いずれ自分も裏切られて殺される」と気づき、我に返って処刑を決定しました。

 

③呂布の最後の叫び(捨て台詞)

劉備の言葉によって自分の死が決定的になったと悟った呂布は、激怒して劉備を激しく罵りました。

呂布:「この大耳児(おおみみやろう)こそが、一番信用できない奴だ!」
(※劉備は耳が非常に大きかったという外面の特徴から、このように罵っています。)

 

結局、曹操の命令によって呂布は首を絞められて処刑され、その首は晒されました。

ちなみにこの内容は「魏志」呂布伝に記されている内容になります。

曹操の客将時代の劉備

呂布滅亡後、劉備は曹操とともに許へ向かいます。曹操は劉備を厚遇しました。

 

「天下の英雄は君と私だけだ」

と曹操に言われた劉備が箸を落とした話は有名ですね。

是時曹公從容謂先主曰

「今天下英雄、唯使君與操耳。本初之徒、不足數也。」

先主方食、失匕箸。(「蜀志」先主伝)

献帝周辺では反曹操派が存在していました。その中心の一人が董承です。

 

献帝は曹操に恐怖を覚え、董承に密勅を与えた事がきっかけとなり、

王子服・呉碩・呉子蘭・种輯ら同士と共に曹操打倒計画を進めました。

 

そしてこの曹操打倒計画に名を連ねた一人に劉備もいます。

 

その後に劉備は袁術討伐を口実に曹操のもとから離れ、

袁術滅亡させた後は車冑(徐州刺史)を殺害し、曹操から離反しました。

これにより曹操と完全対立することとなります。

 

ちなみに董承の曹操打倒計画は露見し、それに加わった者達や一族の者達は皆殺しとされています。

劉備は紙一重でその危機から遠ざかる事ができたということですね。

劉備敗北と袁紹陣営への亡命

しかし劉備の反旗に対して、曹操は即座に反撃します。

そしてあっさりと劉備は敗北を喫し、配下の者達や家族も散り散りになりました。

 

この時に劉備は河北の袁紹に助けを求めて落ち延びています。

 

関羽に関しては一時曹操へ降伏しています。

ただしこれは「劉備の妻子保護」の意味合いが強かったと見られます。

 

また「蜀志」関羽伝を見る限り、

「劉備の所在が分かれば必ず戻る」という姿勢が垣間見れます。

曹操もその事情を理解した上で厚遇していたようです。

演義では曹操に降伏するにあたって、三つの条件を提示しています。

  1. 漢朝(皇帝)に降伏するものであり、曹操に降伏したのではない。
  2. 劉備の二人の夫人(甘夫人・麋夫人)の身柄の安全と、生活を保障すること。
  3. 劉備の行方が分かれば、いかなる時も直ちに劉備のもとへ馳せ参じること。

白馬の戦い(顔良討死)&延津の戦い(文醜討死)

建安五年(200年)、袁紹と曹操の全面戦争である官渡戦が始まります。

その前哨戦が「白馬の戦い」でした。

 

そしてその戦いで顔良が関羽に討ち取られています。

  • 顔良の軍旗を発見
  • 万軍の中へ突入
  • 顔良を斬殺
  • 首を持ち帰った

と「蜀志」関羽伝には記されています。

 

そして続く延津の戦いでも文醜が荀攸の罠にかかる形で討ち取られています。

ちなみにこの戦いには劉備も袁紹側として参加しています。

関羽、劉備の元への帰還

関羽は劉備が袁紹陣営にいることを知ると、関羽は曹操へ書状を残して去ります。

 

曹操配下の将たちは追撃を主張しましたが、曹操は、

「各々その主君のために働いているだけだ」として追撃を禁じました。

 

ちなみに演義にある「五関突破(五関斬六将)」などの派手な描写は正史には存在しません。

〈五関突破(五関斬六将)の概要〉
    • 目的:曹操のもとを去り、義兄・劉備のいる袁紹の領地へ向かう。
    • 背景:曹操の通行手形がないため、各関所の守備隊長が関羽を阻んだ。
    • 結果:関羽が5つの関所を突破し、6人の将軍を討ち取って脱出した。

通過した関所と討ち取られた敵将一覧

順番 関所(場所) 討ち取られた敵将 特徴・最期の状況
1 東嶺関
孔秀
通行手形がない関羽を足止めしようとして一撃で斬られた。
2 洛陽
韓福
孟坦
孟坦が囮となり、韓福が矢で関羽の腕を射抜くが、二人とも返り討ちに遭った。
3 沂水関
卞喜
鎮国寺で暗殺計画を企てるが、僧侶の密告で露見し、関羽に斬られた。
4 滎陽
王植
宿舎に火を放ち関羽を焼き殺そうとしたが、密告で失敗し逃げるところを斬られた。
5 滑州の渡し場
秦琪
黄河を渡らせまいと立ちふさがったが、激怒した関羽に一瞬で首を落とされた。

関羽が千里行の末に、劉備の元に帰参した話って本当なの?

汝南の戦い&敗北後の劉備

劉備は袁紹のもとへ身を寄せていた劉備ですが、

ただし袁紹から絶大な信任を得ていたわけではなく、半ば客将のような立場でした。

 

白馬・延津の戦いで袁紹軍が敗れる中で、

劉備は袁紹の命を受け、汝南方面で曹操への抵抗活動を行います。

この時、黄巾残党の劉辟・龔都らとも連携しています。

 

 

ただし演義で描かれるような大規模な軍事行動ではなく、

正史では比較的小規模な遊撃戦・地方反乱支援に近い活動でした。

 

しかし劉備は曹操に敗北し、最終的に荊州の劉表を頼って落ち延びていくことになります。

 

この時の劉備は、

  • 独自の地盤なし
  • 兵力も限定的
  • 何度も敗北経験あり

という極めて不安定な立場でした。

 

劉表は同じ漢室の血を引いた人物であり、劉備を厚遇して迎えています。

 

当時の荊州は、

  • 比較的平和
  • 経済力が高い
  • 人口が多い
  • 学問文化が発展

したような地域であり、多くの知識人や避難民が流入していました。

 

後に劉備に味方する諸葛亮・龐統が活動していたのもこの地域です。

 

劉備にとって荊州滞在は、単なる亡命期間ではなく、

  • 人材獲得
  • 政治基盤形成
  • 荊州人脈構築

を行う重要な時期となりました。

髀肉の嘆

荊州時代の有名な逸話が「髀肉の嘆」です。

 

ある時劉備は、自分の太腿に肉がついていることに気付きます。

長年戦場を駆け回っていた頃は筋肉質だったのに、荊州にて平穏な生活が続いたことで肉付きが良くなっていたのです。

 

劉備はこれを見て、「功業を成し遂げぬまま老いていく」ことを嘆きました。

 

ちなみにこれは正史三国志(陳寿著)に記載されているものではなく、

裴松之が注釈を加えた「九州春秋」に由来する逸話になります。

髀肉之嘆(髀肉の嘆/ひにくのたん)

諸葛亮との出会い

荊州時代、劉備は諸葛亮と出会います。

この頃の諸葛亮はまだ若く、地方の名士層の中で知られ始めていた段階でした。

司馬徽や徐庶らが劉備へ諸葛亮を推薦したとされています。

~三顧の礼の史実性~

正史『三国志』諸葛亮伝でも、

  • 劉備が諸葛亮を非常に重視した
  • 劉備が自ら三度にわたって会いに行った

ことは記録されています。

しかし、演義による脚色も多いのが三顧の礼でもあります。

正史では比較的簡潔に記されています。

隆中対  -蜀漢戦略の原型-

諸葛亮は劉備へ天下戦略を説きました。

これが有名な「隆中対」です。

内容を要約すると、

  1. 荊州確保(まず荊州を基盤とする)
  2. 益州獲得 (次に守りやすく豊かな益州を手に入れる)
  3. 孫権との同盟(曹操に単独対抗は不可能なため、江東の孫権と同盟する)
  4. 北伐構想(時機を見て中原回復を目指す)

 

この構想は後の、

  1. 孫権との同盟
  2. 赤壁の戦い
  3. 荊州南部四郡の攻略
  4. 益州攻略
  5. 蜀漢建国

へと繋がっていきます。

 

とにもかくにも諸葛亮との出会いが、

劉備が大きく飛躍していくきっかけになった事だけは間違いないでしょう。

天下三分の計