劉備の跡を継いだ劉禅
劉備の子である劉禅は、劉備がこの世を去る前、
「諸葛亮殿を父親と思って孝行しなさい!」と劉備から伝えられていた事もあり、
諸葛亮にも
「劉禅が跡継ぎに相応しくないようなら、諸葛亮が跡を継いでくれ!」
と後を託したのでした。
それを聞いた諸葛亮は感激し、劉禅を生涯補佐していく事を心に誓ったわけです。
実際は劉禅とは異母兄弟にあたる劉永・劉理が、
諸葛亮と共に白帝城の劉備を見舞った際に言われた言葉ではありますが、
それは間接的に劉禅に対して言われたのも同然だったんですよね。
劉備は自分の子に対して、
「諸葛亮を父親と思って接しろ!」と言ってるわけですから・・・
そういう経緯の中で、劉禅が跡を継いで皇帝に即位します。
しかし劉備が生前白帝城から呉との関係の修復に努めていたとはいえ、
劉備と孫権の間には大きな溝があり、これを解決していく事が諸葛亮にとっては必須事項でした。
同時に夷陵の戦いで多くの将兵が討ち取られており、
国力が大きく低下していたという現状を受け入れつつ、
「蜀の再建」を果たすという道も並行して解決していかなければいけなかったわけです。
蜀呉関係の修復
劉備が死んで劉禅が跡を継いで新政権に移った蜀でしたが、
最終目標は魏を滅ぼし、
呉を併呑して天下統一を成し遂げて漢王朝の完全復活というものでした。
その最終目標と現在の状況を冷静に分析しても、
三国の中で国力が一番低かったことに追い打ちをかける形で夷陵の戦いで惨敗を喫してしまった事で、
明らかに夢物語としか言えない現状でした。
その為に後事を任された諸葛亮は、その現状を打開すべく動き出します。
まずは完全に呉との同盟関係を再度構築しなおし、
お互いが魏討伐という共通目標の中で協力していく体制作りは必要不可欠でした。
劉備が生前に孫権との関係修復に努めていた事もあり、
それを再確認・強化するという形でのはじまりだったわけですね。
実際劉備が死んでからというものは、
孫権の態度が明確になっていなかったというのもあります。
この時に諸葛亮は鄧芝を呉へと送り、孫権は張温を蜀へと派遣したことで
両国の関係は良い方向へと向かっていく事になります。
諸葛亮の南蛮討伐
劉備亡き後、狙っていたかのように蜀の南方で孟獲が反乱をおこします。
夷陵の戦いで惨敗を喫していた蜀は、
この反乱を鎮圧しなければ国力は更に低下すると踏んだ諸葛亮は、
魏打倒に今後専念できるようにするという意味でも、この孟獲討伐へと乗り出します。
まぁ反乱を起こしたのは孟獲だけではなく、
雍闓・高定・朱褒らが協力して起こした反乱だったのです。
実際は孟獲の反乱というわけではなく、
雍闓が周りを誘って起こしたといった反乱というのが正確な所かなと思いますね。
そしてこの反乱は諸葛亮によって鎮圧され、見事に南方制圧に成功!
ちなみに「七縦七擒」という言葉は、この時に生まれた言葉でもあります。
この言葉の由来は三国志演義に記載されていますが、
七度捕らえられた孟獲が七度解放されたことで、
心の底から諸葛亮を尊敬して二度と反乱を起こさないと誓ったという話ですね。
南蛮討伐へと乗り出す際に、
馬謖が「城を攻めるを下策、心を攻めるが上策」といって、
「心から南蛮民族らを従わせないと何度も反乱を起こすから意味がない」
と諸葛亮に進言した話も残ってたりします。
その言葉を聞いた諸葛亮は、
そういった意味でも心を許すまで孟獲と戦い続けては解放を続けたのでした。
その回数が結局七回になったというだけですね。
ただこれはあくまで三国志演義での話ですので、
七度も解放したかは定かではありません。
しかし何度か解放したというのはあったんだと思います。
曹丕の崩御
221年に曹操の跡を継いだ曹丕ですが、
その5年程度経過した226年にこの世を去ってしまいます。
曹丕には曹植・曹彰といった優れた兄弟も多かったのですが、
曹操の跡継ぎになる為に競い続けたこともあってか、生涯兄弟を信頼する事はなかったようです。
そんな中で曹彰は失意の中で亡くなっており、
曹植自身も生涯重く採り立てられるということはありませんでした。
曹彰は素手で虎を倒すといったほどの現実離れした武勇の持ち主であり、
北方の鳥丸族・鮮卑族討伐では並々ならないほどの結果を残した人物であり、
曹植が文学面で後世に与えた影響は、
計り知れないというほどの才能の持ち主でもありました。
少し話がずれてしまいましたが、
曹丕が亡くなった事で息子であった曹叡が跡を継ぐことになります。
曹叡は子供の頃から神童として注目されており、
曹丕の跡を立派に継いでいけるという期待を受けての即位でした。
また曹操の生存時には、曹丕の子である曹叡を非常に可愛がっており、
「三代目になるのはお前しかいない」と期待していたほどの人物だったといいます。
曹叡は曹丕と甄姫の子であるのが一般論ではありますが、
甄姫はもともと袁紹の次男であった袁煕の妻であり、曹操が鄴陥落させた際に奪った女性でした。
この時に曹操に従って出陣していた曹丕が甄姫を大変気に入り、
自分の嫁として迎えた女性でもあります。
そして曹叡の出生には疑問点が残されており、
実は曹丕との息子ではなく、
袁煕との間でできた子ではなかったかとも言われていますね。