益州南部の3郡の反乱

劉備が死んで後、

益州南部の方で反乱が勃発します。

 

反乱を起こしたのは、

益州南部の豪族の雍闓(ようがい)でした。

 

それに呼応するように近隣でも

高定(こうてい)・朱褒(しゅほうが反乱を起こします。

 

 

雍闓はこの時に呉に通じており、孫権から永昌太守に任命されています。

 

またこの雍闓の反乱に、

七縦七擒のことわざの元になった孟獲も参加したわけです。

 

 

しかしそこより更に益州南部に位置していた永昌郡では、

雍闓に味方せず、王伉・呂凱(りょがい)が抵抗したのでした。

 

孔明は雍闓らの反乱を抑えて永昌郡を救うべく、南蛮討伐を開始することとなります。

雍闓・高定・朱褒の鎮圧

 

孔明が高定と開戦した頃、

高定を救う為に援軍としてかけつけた雍闓でしたが、

 

ここで二人は仲間割れを起こし、高定が雍闓を殺害してしまいます。

 

そして雍闓を殺害した高定ですが、その後の戦いで諸葛亮にあっさりと敗れ、

もう一方の朱褒も馬忠によって蹴散らされてしまったのでした。

 

 

高定によって討たれた雍闓軍の兵をまとめたのが孟獲だったのです。

 

孟獲は何度も孔明に抵抗しますが、最終的に「孔明には敵わない!」と判断!

そして孟獲は孔明に降伏したことでこの反乱に幕が下ります。

七縦七擒(しちしょうしちきん)

「七縦七擒」という言葉は、

「心を攻めるは上策、城を攻めるは下策」という馬謖の言葉を参考にし、

 

孟獲を七度捕らえて七度解放したことに由来しています。

 

 

これは三国志演義で登場する話ですが、

三国志正史の方では詳しい戦いについての記載はありません。

 

ただ孔明が南蛮の反乱を鎮圧し、南方の者達を心服させたという話が載っているぐらいです。

 

 

実際は孔明は北伐を行う前に、後方の憂いを排除する為の討伐であり、

 

その南蛮平定にかけた期間を考えると、

数度は解放したかもしれませんが、七度解放したというのは疑問が残る所です。

「七縦七擒」の名前の由来となった孟獲

三国志演技に書かれている七縦七擒の流れ

一戦目

横山光輝三国志(46巻121P)より画像引用

 

三元帥(金環三結・董荼那・阿会喃)の協力を得ますが、

 

金環三結(きんかんさんけつ)は趙雲に討ち取られ、

董荼那(とうとな)・阿会喃(あかいなん)は捕らえられてしまいます。

 

しかし孔明によって、董荼那・阿会喃は解放されます。

 

 

その後孔明は孟獲と戦いますが、孟獲が蜀の軍勢を押し込んだことで蜀軍は撤退を開始!

 

これをチャンスと見た孟獲は蜀の軍勢に追手を出したわけです。

 

しかし蜀が押されて撤退したのは孔明の作戦であり、

待ち構えていた孔明の伏兵によって手痛い被害を受けて、孟獲自身は魏延に捕らえられてしまいます。

二戦目

先の戦で、孔明に解放されていた董荼那・阿会喃でしたが、

孟獲の命令で再度出撃する事になります。

 

しかし孔明に恩を感じていた董荼那が、

孟獲を裏切り、孟獲は捕らえられてしまいます。

三戦目

孔明を油断させるために、

孟獲の弟である孟優を降伏の使者に送ります。

 

そして蜀軍が油断しているであろう時に夜襲を仕掛けますが、

孔明によって見破られ、馬岱によって捕らえらてしまったのでした。

四戦目

孔明の策略におびき寄せられた孟獲軍は、蜀軍の反撃にあって惨敗!

その後、孟獲は落とし穴にはまって捕らえられます。

五戦目

横山光輝三国志(48巻17P)より画像引用

 

南蛮一の知恵者であった朶思大王(だしだいおう)の協力を得ます。

そして蜀軍にあの手この手で抵抗します。

 

その中でも朶思大王が頼りにしていたのが四つの毒泉でした。

  • 唖泉
  • 滅泉
  • 黒泉
  • 柔泉

 

これによって蜀の多くの兵士が毒に侵されて死亡したり、重傷者が増えることとなります。

この時に登場したのが孟獲の兄である孟節です。

 

孟節は毒によって重症化した者達を治療する形で蜀に力を貸したのでした。

 

 

そうとは知らない朶思大王や孟獲は、

「勝利間違いなし!」と浮かれて酒宴を催していたのですが、

 

既に孔明に降伏してい楊鋒(ようほう)に裏切らる形で、

孟獲・朶思大王は捕らえられてしまったのでした。

【三国志演義】孟獲・孟優と別の道を歩んだ孟節

六戦目

横山光輝三国志(48巻136P)より画像引用

 

解放された孟獲・朶思大王でしたが、

再度決戦を挑んだ際に朶思大王は討死!

 

朶思大王を討ち取られたことで今後どう戦うか検討を重ねていた頃、

孟獲の妻である祝融夫人が登場します。

 

祝融夫人は男顔負けの腕前であり、馬忠・張嶷を捕らえる活躍を見せます。

 

 

しかし祝融夫人の活躍もこれまでで、

孔明によって仕掛けられた罠に見事にはまり、

 

趙雲によって祝融夫人は捕らえられてしまうのでした。

 

 

その後、祝融夫人が捕らえた馬忠・張嶷と人質交換をする形で解放されます。

【三国志演義】火神の子孫、祝融夫人

 

横山光輝三国志(48巻175P)より画像引用

 

そんな折に、木鹿大王(ぼくろくだいおう)が孟獲の援軍にかけつけます

木鹿大王を味方につけたのは、祝融夫人の弟であった帯来洞主でした。

 

帯来洞主は蜀軍によって苦戦を強いられていた孟獲を助けるべく、

裏方として孟獲を支えていたわけです。

【三国志演義】帯来洞主 -祝融の弟であり、火神の子孫-

 

孟獲を援護すべくやってきた木鹿大王ですが、

自信があるだけあって、木鹿大王が率いた猛獣軍を繰り出して蜀軍を苦したのでした。

 

 

これに対して孔明は「火薬を吐く木獣」を使ったわけです。

 

これにより木鹿大王が率いる猛獣達は四散してしまい木鹿大王は討死!!

それから間もなくして孟獲も捕らえられます。

七戦目

横山光輝三国志(49巻32P)より画像引用

 

追い詰められた孟獲は、

烏戈国(うかこく)の兀突骨(ごつとつこつ)に助けを求めます。

 

兀突骨の兵士達は、「藤甲」という鎧を身につけており、

これは槍や弓矢を弾き飛ばす鎧で、蜀軍を大いに苦しめたのでした。

 

 

しかしこの鎧は油を塗って作られており、

弱点を見破った孔明の地雷の罠にかかって一兵残らず全滅!!

 

間もなく孟獲も、馬岱によって捕らえられたのです。

孟獲心服

横山光輝三国志(49漢107P)より画像引用

 

七度捕らえれれ、七度目も解放しようとした孔明でしたが、

ここで孟獲は蜀に降伏する旨を孔明に伝えます。

 

孔明の偉大さに心から感激した孟獲は、

「我らはあなた方に二度と背かない」と服従を誓っています。

 

 

「心を攻めるを上策」という馬謖が提案した戦略が、

これをもって実を結んだのでした。

余談

 

雍闓・高定・朱褒の反乱と南蛮平定をきっかけに、

益州郡から建寧郡に名前が変更されています。

 

またそれ以外には、永昌郡が永昌郡&雲南郡に分けられることとなりました。

※実際には建寧郡からも一部雲南郡に組み入れられています。

 

そして永昌郡太守に王伉、雲南郡太守に呂凱が任命されています。