董卓の死

董卓が帝をないがしろにし、

独裁政治を開始されていましたが、

 

この時既に外戚であった何進らは宦官の罠にはまり殺され、

その宦官もまた袁紹らによって皆殺しにされているという状況でした。

 

 

これまで権力を持っていた人達がいなくなったことで、

それまで息を潜めていた清流派の人達が、ここにきて活動し始めたわけです。

 

その中心人物になったのが王允で、

董卓の腹心であった呂布を裏切らせることに成功します。

結果董卓は討たれ、董卓の独裁政治に終わりを告げる事になります

王允・呂布の三日天下

王允・呂布が董卓を討ちましたが、

董卓に仕えていた李傕・郭汜・張済らは、

豫洲・兗州方面へ出陣していたので、長安にいませんでした。

 

董卓死亡の知らせを聞いた彼らは逃亡を考えますが、

この時参謀にいた賈詡が、「どうせ逃げるぐらいなら、一度戦ってみましょ。

逃げるんなら戦って勝てないと分かった後でもいいでしょ?」と進言します。

 

これを聞いた彼らは協力して、長安へ攻め込みます。

元董卓配下や兵が集まってきたことで10万の軍勢にふくれあがります。

 

さすがに王允・呂布もこの大軍にはどうすることもできず、

王允は捕らえられて斬首されます。

 

呂布はなんとか逃げる事に成功し、袁術を頼るも冷遇され、

袁紹を頼っても冷遇され、行き場に困った呂布は張楊を頼って落ち延びます。

⑥美女連環の計による董卓殺害と献帝の長安脱出

公孫瓚、袁紹と激突する(界橋の戦い)

公孫瓚と袁紹がついに激突する時がやってきます。

白馬義従を筆頭に公孫瓚は界橋で袁紹とぶつかるのですが、

 

袁紹は騎馬隊対策に秀でた麹義(きくぎ)によって、

散々に打ち破られ、公孫瓚は厳綱(げんこう)は討ち取られ、

惨敗を喫してしまいます。

 

この戦いで白馬義従を失った公孫瓚は、衰退の道を歩んでいくことになります。

公孫瓚が率いた白馬隊「白馬義従」の栄枯盛衰

劉虞の滅亡

公孫瓚は袁紹とは別に劉虞とも敵対していました。

異民族対策として劉虞は平和的に対応してきて、異民族からの信望を得ていました。

 

しかし公孫瓚は武力的に対応してきたのもあり、

異民族から恐れられていたのもあり、この点で両者の考え方が大きく違ったのです。

 

公孫瓚は、そんな劉虞が許せずにいたのですが、

その両者が激突する事になります。

 

 

公孫瓚は袁紹との戦いに敗れた事もあり、少数の兵しかいませんでした。

それに比べて劉虞の軍勢は10万ほどいたといいます。

 

しかし劉虞は「公孫瓚の兵を傷つけたりしたら駄目だよ」って

意味不明な命令を出したことにより兵士が混乱を起こし、

劉虞は捕らえられ、処刑されてしまいました。

負けるべくして公孫瓚に敗北した劉虞&むちゃぶりも甚だしい公孫瓚

魏武の強

この頃、兗州に青州の黄巾賊の残党が侵攻してきました。

その兵力は総勢100万程度だったと言われています。

 

これに対して、劉岱は迎撃策、鮑信は籠城策を主張しますが、

劉岱は迎撃策を曲げることなく出陣しますが討ち取られてしまいます。

 

 

残された鮑信は曹操の元へ援軍を要請し、

曹操は5000人程度を率いて援軍に向かっています。

 

そして苦戦の末にこの黄巾賊を吸収し、

吸収した黄巾賊を「青州兵」と名付けています。

青州兵(曹操軍精鋭)誕生の秘話

 

青州兵を手に入れた事により、

曹操は今後大きく飛躍していく事になります。

袁術の誤算と衰退

 

袁紹と袁術は兄弟でもありましたが、犬猿の仲でもありました。

 

この時の袁術は南陽に拠点を置いていましたが、袁紹と一大決戦に挑むことを決意します。

もし負ければ帰る所はもうないといった出陣でした。

 

袁紹は劉表ともともと繋がっていたこともあり、

劉表に袁術の背後を襲わせる事で補給路を断ってしまいます。

 

 

それでも袁術は匈奴の於夫羅(おふら)や黒山賊の張燕の協力を得た事により、

更に進軍を進めることをやめませんでした。

 

しかしこの時当時袁紹の元にいた呂布によって

黒山賊が打ち破られてしまうという予期せぬことが起こってしまいます。

※ピンポイントで呂布が袁紹の元で活躍したタイミング

 

不慮の事態が続いた袁術ですが、

なんとか曹操が治める兗州へたどりつき、巨亭の地ででぶつかります。

 

ただこの時の曹操は、青州兵を手に入れた直後であり、

曹操軍によって袁術軍は敗北を喫してしまいます。

 

袁紹と袁術は直接ぶつかる事もありませんでしたが、

袁紹の勝利によってこの両者の激突は幕を下ろします。

 

帰る地がなかった袁術は、揚州刺史であった陳温を殺害し、寿春占拠に成功し、

これ以後袁術はこの地域を中心に活動していく事になります。

その他の動き

その他の動きとして、

曹操が陶謙の治める徐州侵攻による虐殺が行われています。

 

この時徐州から笮融が仏教信者を連れて広陵へ逃げてきますが、

郡太守であった趙昱(ちょういく)は笮融は賓客の礼を持って迎え入れています。

 

 

しかし趙昱の兵士を奪おうと考えた笮融は、

193年に趙昱を殺害してしまいます。

 

趙昱によって推挙された人物に張紘という大人物がいますが、

趙昱が殺害されたと聞いて大変悲しんだそうです。

多くの権力者に求められた張紘

 

また笮融は趙昱だけでなく、

薛礼(さつれい)を殺害するなどやりたい放題やってます。

極悪非道の悪党なのに、仏教を中国に広めた功労者「笮融」

 

ちなみに薛礼が殺害されたのは194年とも195年と言われており、

はっきりしない所があるので

 

192年~193年の出来事には実際は入りませんが、

笮融による騒動の関連としてここでまとめて記載した形です。