周瑜(公瑾)

周瑜は孫策と断金の交わりを結んだことでも知られていますが、

後に大喬・小喬を通して真の義兄弟にもなった間柄でもあったりします。

 

ただ断金の交わりに関しては、三国志(正史)原文にある記載ではなく、

裴松之が注釈を加えた「江表伝」に残された言葉になります。

 

三国志演義では、劉備・関羽・張飛の三名が義兄弟の契りを結んでいますが、

孫策・周瑜の断金の契りと同じような意味合いだと思ってもらえばよいかなと思います。

 

 

周瑜を語る上で忘れてはいけないのが赤壁の戦いではありますが、

そんな周瑜を皆が美周郎」と呼んだという逸話があったりします。

 

ここではその「美周郎」についての話をメインに深堀していきたいと思います。

正史(周瑜伝)に描かれる周瑜

「周瑜=美周郎」のイメージを持ってる方は多いと思いますが、

実際に陳寿の著した正史に、周瑜のことを「美周郎」と記載している描写は一切ありません。

 

ちなみに十四世紀末辺りに作られたとされる三国志演義でも、

正史同様に周瑜の事を美周郎を語っている描写は全くありません。

 

 

では「正史」では、周瑜についてどのように書かれてあるのかというと、

「呉志」周瑜伝の中に、「瑜長壯有姿貌」といった記載が冒頭に見られます。

瑜長壯有姿貌。

初孫堅興義兵討董卓、徙家於舒。

 

堅子策與瑜同年、獨相友善、

瑜推道南大宅以舍策、升堂拜母、有無通共。

「瑜長壯有姿貌」の部分を漢訳すると、

 

「成人を迎えた周瑜の容貌は立派であった」

という意味になりますが、美周郎とは呼ばれておりません。

 

 

ただ周郎」と呼ばれていたのは事実であり、

「呉志」周瑜伝にもきちんと次のように書かれてあります。

策親自迎瑜、授建威中郎將、即與兵二千人、騎五十匹。

孫策は親しく自ら周瑜を迎え、

建威中郎将を授け、すぐさまに兵二千・騎馬五十匹を与えたのである。

 

瑜時年二十四、呉中皆呼為周郎。

周瑜の年齢は24歳であり、呉の者達はみな周郎と呼んだ。

この記載を見ても分かる通り、成人を迎えた周瑜は立派な容貌の持ち主で、

周郎と呼ばれていたということは間違いないのですが、やはり「美」という言葉は一言も登場していません。

 

ちなみに孫策もまた「孫郎」と呼ばれていたことが、

「呉志」孫策伝に残されているのは余談です。

三国志演義に描かれる周瑜

三国志(正史)から、千年以上の月日が経って完成した三国志演義は、

劉備を主人公とした長編小説で、羅貫中が制作したものになります。

※一説では羅貫中でない説もあります。

 

 

ちなみに三国志演義では第十五回で周瑜が登場するわけですが、

そこには「姿質風流、儀容秀麗」と周瑜について書かれています。

 

雰囲気的には美男子と見て取れなくもありませんが、やはり「美」は使われていません。

 

よって「美周郎」という言葉は、

「三国志演義」成立までの中国で生まれた言葉ではないということが言えます。

日本に伝来した三国志演義

三国志の事柄であったり、三国志の時代に誕生したものは、

大なり小なり日本にも影響を与えています。

 

古くは「蘇我入鹿に対して董卓に比肩する暴政」といった言葉が

760年に成立した「藤氏家伝」大織冠伝に記録が残っていたりしますし、

 

曹操が「孫子の兵法書」に注釈を加えた「魏武注孫氏」もそうです。

 

 

また日本でもお馴染みの屠蘇であったり、

餃子や杏仁豆腐や饅頭もこの時代に誕生しています。

  • 屠蘇(華佗)
  • 餃子(張機/張仲景)
  • 杏仁豆腐(董奉)
  • 諸葛亮(饅頭)

 

 

そして明の時代に誕生した三国志演義も、

当たり前のように日本(江戸時代)に伝来しています。

 

伝来した時期は日本では江戸時代にあたりますが、

ここでも「美」であったり、「美周郎」といった言葉は使われていません。

 

むしろ「美男子」とは、真逆の様相で受け止められていますね。

 

 

その最もわかりやすい例が、

葛飾戴斗が「絵本通俗三国志」に描かれた周瑜でしょう。

 

その挿絵にはこれでもかと言う程に、毛むくじゃらの周瑜が描かれています。

 

ちなみに諸葛亮も描かれていますが、

明らかに周瑜より諸葛亮の方が美男子に描かれています。

 

ただここでは周瑜と諸葛亮しか掲載されていませんが、

劉備を筆頭にほとんどの人物が毛むくじゃらに描かれてはいるのが実情ですね。

 

 

兎にも角にも日本に伝わった後も、

「美周郎」という言葉は誕生していないといいますか、

 

更に「美周郎」から遠のいていったと考えてよいでしょう。

吉川英治の「三国志」

そして時代の変化と共に、周瑜像にも次第と変化がでてきます。

 

それは中国ではお馴染みの「京劇」では、

周瑜役には美男子が選ばれるようになったりしていきます。

 

そんな中で「美周郎」という言葉が初めて使われたのが、

吉川英治の「三国志」になります。

 

そこには次のようにはっきりと美周郎と書かれてあります。

容姿端麗で、顔は非常に美しく、

呉の人々は周瑜のことを「美周郎」と呼んだ。

 

吉川英治の「三国志」は、

横山光輝をはじめ多くの作家や漫画家に多大な影響を与えた人物ですが、

 

その流れで受け継がれていった三国志が、

私たちの中に当たり前のように入ってきた形なのでしょうね。

 

その中の一つが美周郎であったわけです。

 

 

ちなみに孫権の妹で、劉備に嫁いだ孫夫人(孫尚香)のことを、

初めて「弓腰姫」と呼んだのも吉川三国志だったりします。

人形劇「 三国志」

三国志を知ったきっかけが吉川三国志・横山光輝三国志でもなく、

1982年から放送されていた、人形劇「三国志」だという人もかなりいます。

※放送時期(1982年10月2日~ 1984年3月24日)

 

島田紳助・松本竜介の二人が司会をし、

「桃園の誓い」から「五丈原の戦い」まで放送されたものですが、

 

ここでも周瑜は美周郎のイメージで登場していますね。

 

 

その後はKOEI(光栄)による歴史シュミレーションゲームであったり、

「三国無双」という新たな視点から描いたゲームの登場だったりと、

 

現在では益々多くの層に受け入れられ、美周郎の周瑜が定着していったように思えます。