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諸葛亮(しょかつりょう 字:孔明)

諸葛亮(徐州琅邪郡陽都県出身)は、幼くして父・諸葛珪を亡くし、弟の諸葛均とともに叔父の諸葛玄に引き取られました。
諸葛玄の死後は荊州へ移り住み、学問に励えながら静かな生活を送ります。
当時の諸葛亮は農作業をしながら読書に励み、
自らを春秋時代の名宰相・管仲や、戦国時代の名将・楽毅になぞらえるほどの大きな志を抱いていました。
しかし、その才能を理解する者は少なく、
親友の徐庶や崔州平らだけが諸葛亮の器量を高く評価していたと伝えられています。
また、この頃に荊州の名士・黄承彦の娘を妻(黄夫人)に迎えました。
容姿よりも才能や人格を重視した婚姻として知られています。
劉備との出会い
建安12年(207年)、徐庶の推薦を受けた劉備は、
諸葛亮の住む隆中を三度訪ねました。これが有名な「三顧の礼」です。
劉備の熱意に心を動かされた諸葛亮は仕官を決意し、
曹操・孫権・劉備の三勢力による均衡を軸とした国家戦略を説きました。
これが後世「隆中対(天下三分の計)」と呼ばれる構想です。
なお、「天下三分」という発想自体は諸葛亮独自のものではなく、
当時の情勢から多くの知識人が考え得た戦略だったと考えられています。
魯粛も孫権に対して似たような構想を進言しており、
諸葛亮はその中でも最も体系的かつ現実的な戦略として提示した人物といえるでしょう。
赤壁の戦いと荊州経営

建安13年(208年)、
曹操が南下すると、諸葛亮は孫権との同盟を積極的に推進しました。
魯粛とともに孫権へ赴き、曹操軍の弱点や戦況を分析して共同抗戦を説得します。
この外交交渉は成功し、孫劉連合軍は赤壁の戦いで曹操軍を撃退しました。
その後、劉備は荊州南部を平定し、
諸葛亮は軍師中郎将として長沙・桂陽・零陵三郡の統治を任されます。
軍事だけではなく行政能力にも優れ、軍資金や兵糧の確保に大きく貢献しました。
益州攻略と蜀漢建国
建安16年(211年)、劉備が益州へ進出すると、
諸葛亮は張飛・趙雲らを率いて長江を遡り、各地を平定しながら成都へ向かいました。
建安19年(214年)に成都が陥落すると、蜀の政治制度や法整備に携わり、
法正・劉巴・李厳・伊籍らとともに「蜀科」の制定にも関与しました。
章武元年(221年)、劉備が皇帝に即位すると、諸葛亮は丞相・録尚書事となり、蜀漢の政治の中心人物となります。
劉備の遺命
章武3年(223年)、夷陵の戦いで大敗した劉備は白帝城で病に倒れます。
臨終の際、劉備は諸葛亮に対し、
「君の才能は曹丕の十倍である。
もし我が子が補佐に値するなら支え、もしその器でなければ君が天下を治めてくれないか」
と国家を託しました。
しかし諸葛亮は涙ながらに忠誠を誓い、生涯にわたり劉禅を補佐することを約束します。
この逸話は、君臣の信頼関係を象徴するものとして広く知られています。
南征と国家再建
劉備の死後、南中地方では雍闓・高定らが反乱を起こしました。
建興3年(225年)、諸葛亮は自ら遠征して反乱を平定し、蜀漢の支配を安定させます。
正史『三国志』には七縦七擒の記述はなく、
「蜀志」諸葛亮伝(裴松之注「漢晋春秋」)であったり、華陽国志に見られる逸話ですが、
正史本文に記載がない事もあり、本当に七度捕らえたのかは疑問は少なからず残ります。
ただ諸葛亮が武力だけではなく懐柔策も重視したことだけは確かです。
南中平定後は現地の統治制度を整え、多くの物資や税収を蜀へもたらし、以後の北伐を支える重要な経済基盤を築きました。
五度にわたる北伐
建興5年(227年)、諸葛亮は『出師表』を奉り、魏討伐を開始します。
第一次北伐では天水・南安・安定三郡が蜀へ帰順するなど順調に進みましたが
街亭で馬謖が敗北したため撤退を余儀なくされました。
その後も陳倉攻略、武都・陰平の獲得、祁山遠征など計五度にわたる北伐を行いました。
軍事的には決定的勝利を得ることはできませんでしたが、
蜀の国力を維持しながら魏へ継続的な圧力を与え続けたことは高く評価されています。
出師表(前出師表)の原文&現代語訳

横山光輝三国志(49巻175P)より画像引用
「前出師表」
臣亮言 先帝創業未半 而中道崩殂
臣下である諸葛亮が申しあげます。先帝(劉備)が志半ばにして崩御なさいました。
今天下三分 益州疲弊
現在天下は三つに分かれていますが、益州(蜀)が一番苦しい状況にあります。
此誠危急存亡之秋也
これは私達にとってまさに危急存亡の時と言えるでしょう。
然侍衛之臣 不懈於內 忠志之士 忘身於外者
しかし我々臣下一同は内政を怠らず、忠義ある者達が前線で戦っておりますのは、
蓋追先帝之殊遇 欲報之於陛下也
先帝からの御恩を忘れず、陛下(劉禅)に報いる事を望んでいるのです。
誠宜開張聖聽 以光先帝遺徳 恢弘志士之気
陛下は忠義ある者達の言葉を聞き入れ、先帝の残された御徳を更に輝かしいものにし、志高い者達の広く用いてくださいませ。
不宜妄自菲薄 引喩失義 以塞忠諫之路也
また陛下自身も自らを過小評価するのではなく、義心をもって忠言に耳を傾けてださいませ
宮中府中俱爲一體 陟罰臧否 不宜異同
そして宮廷の者と府中の者が一体となり、善悪の賞罰にあたって不公平な事があってはなりません。
若有作姦犯科 及為忠善者
罪を犯した者や国の為に尽くした者には、
宜付有司 論其刑賞 以昭陛下平明之治
その賞罰をはっきりとさせ、陛下の公平明確な治世を世に知らしめるべきです。
不宜偏私 使內外異法也
また個人の感情を持って、宮中・府中の法律が異なることがあってもなりません。
侍中侍郞郭攸之費禕董允等 此皆良実 志慮忠純
侍中・侍郎の郭攸之・費禕・董允らは、皆優れた人物で忠実な者達であります。
是以先帝簡拔以遺陛下
だからこそ先帝は彼らを陛下の為に残されたのです。
愚以為宮中之事 事無大小 悉以咨之 然後施行
私が思うに宮中の事に関しては、大小に関わらずに全て彼らに相談した上で施行すれば、
必能裨補闕漏 有所広益
間違うようなことがなく、うまくいくことでしょう。
将軍向寵 性行淑均 曉暢軍事
将軍である向寵は穏やかな性格をしており、誠実な人物であるだけではなく、軍事にも精通している人物です。
試用之於昔日 先帝弥之曰
かつて先帝が向寵を用い、有能な人物であると仰られました。
能是以衆議挙寵為督
だからこそ満場一致で向寵は中部督に任じられたのであります。
愚以為営中之事 事無大小 悉以咨之
私が思うに宮中の軍事に関する事は、大小に関わらずに全て彼に相談すれば、
必能使行陣和睦 優劣得所也
軍の統率は上昇し、適材適所に応じた配置を行ってくれることでしょう。
親賢臣 遠小人 此先漢所以興隆也
優れた人物を優遇し、つまらない人物を遠ざけた事で、前漢は隆盛を極めました。
親小人 遠賢臣 此後漢所以傾頽也
一方でつまらない人間を優遇し、優秀な人物を遠ざけた事で、後漢は没落していきました。
先帝在時 毎与臣論此事 未嘗不歎息痛恨於桓霊也
まだ先帝が存命だった頃は、いつも私とそれらの事について論じられ、桓帝・霊帝の治世に対して溜息をつかれておりました。
侍中尚書長史參軍 此悉貞亮死節之臣也
侍中・尚書・長史・参軍の者達は、全て陛下の為に命を捨てることができる者達になります。
願陛下親之信之 則漢室之隆 可計日而待也
陛下が彼らに親しみを持って接し、彼らに信頼を持たれるならば、漢王朝の再興は、日を数えて待つようなものです。
臣本布衣 躬耕南陽
私はもとは無官の身で、南陽にて畑を耕しておりました。
苟全性命於乱世 不求聞達於諸侯
そして乱世の世の中にあって自らの命があればよいとだけ考えており、諸侯に仕官する事もありませんでした。
先帝不以臣卑鄙 猥自枉屈
しかし先帝は私の身分を気にされる事もなく、自らをへりくだり、
三顧臣於草廬之中 諮臣以当世之事
三度までも私の草庵に足を運んで頂き、今後の取るべき道をお尋ねになられました。
由是感激 遂許先帝以駆馳
私はこれに対して非常に感激し、生涯にわたって先帝にお仕えする事を決意したのです。
後値傾覆 受任於敗軍之際 奉命於危難之間
その後に長坂の戦いにて敗れる中で、私は呉との同盟を締結するように命じられました。
爾來二十有一年矣
思えばそれからもう二十一年の月日が経ったものです。
先帝知臣謹愼 故臨崩寄臣以大事也
先帝は私が謙虚である事を知っておいでだったのか、亡くなられる前に、私に対して国の大事を託されました。
受命以來 夙夜憂歎
私はその言葉を受けて以来、朝な夕な思い悩み、
恐付託不効 以傷先帝之明
もし先帝の願いに応えられないようなことにでもなれば、先帝の志まで傷つけてしまうのではないかと心配しています。
故五月渡瀘 深入不毛 今南方已定 甲兵已足
だから私は五月に瀘水を渡り、南方の反乱討伐に乗り出しました。そして今や南方の地も平定され、軍備も十分に足りております。
当奨率三軍 北定中原 庶竭駑鈍 攘除姦凶 興復漢室 還於旧都
今こそ三軍を率いて北伐を開始し、中原を平定すべきです。私は愚かな人間ではありますが、魏を倒して漢王朝を再興し、旧都(長安&洛陽)を奪還せねばなりません。
此臣所以報先帝 而忠陛下之職分也
これこそが先帝の御恩に報い、陛下に対する忠誠の証となるものと考えております。
至於斟酌損益 進盡忠言 則攸之禕允之任也
国家の損益を考えて忠言をするのは、郭攸之・費禕・董允の役目になります。
願陛下託臣以討賊興復之効
願わくば陛下、私に「魏を討ち、漢王朝を再興せよ」とお命じ下さいませ。
不効則治臣之罪 以告先帝之霊
そして私が漢王朝の再興を果たせないようなら、私を罰して先帝へご報告下さい。
若無興復之言
また国家の事に対して助言が得られないようなことがあれば、
則責攸之禕允等之咎 以彰其咎
郭攸之・費禕・董允の怠慢を責め、その罪を明らかにされて下さいませ。
陛下亦宜自謀 以諮諏善道
陛下におかれましても、良き政治がどういうものかについては臣下の者に相談なされ,
察納雅言 深追先帝遺詔
正しい意見を取り入れて、先帝の御志を引き継がれてくださいませ。
臣不勝受恩感激
私はこれまで受けてきた御恩に対して感激が絶えません。
今当遠離 臨表涕零 不知所云
これから国を遠く離れて出陣するにあたり、この上奏文を書いている最中も涙が次から次へと溢れてしまい、これ以上何も申し上げることはございません。
出師表で涙しない者は不忠
「出師表で涙しない者は不忠」という言葉がありますが、
この言葉は1158年から1227年を生きた、南宋の人物である 安子順の言葉になります。
この安子順の言葉が残されているのが、安子順と同時代を生きた趙与時の「賓退録」になります。
ちなみに「賓退録」が著された理由は、趙与時が客人と会った時に、
自身で気に入った言葉があった時にメモした言葉や文章をが膨大になり、それを十巻にまとめたものが「賓退録」というわけです。
そして「賓退録」の九巻に収められているのが、
「出師表で涙しない者は不忠」という安子順の言葉になります。
「賓退録」の九巻に「出師表で涙しない者は不忠」と言う言葉が出てくるわけですが、
そこには次のような形で原文が記載されています。
| 【原文/漢文】讀諸葛亮出師表不墮淚者不忠、
讀李密陳情表不墮淚者不孝、 讀韓愈祭十二郎文不墮淚者不慈。 |
| 【書き下し文】諸葛亮の出師表を読みて涙を堕さざる者は不忠、
李令伯の陳情の表を読みて涙を堕さざる者は不孝、 韓退之の十二郎を祭る文を読みて涙を堕さざる者は不友。 |
| 【現代語訳】「諸葛亮の出師表を読んで涙を流さない者は不忠であり、
李蜜(李令伯)の陳情の表を読んで涙を流さない者は不孝であり、 韓愈(韓退之)の十二郎を祭る文を読んで涙を流さない者は不友である。」 |
更に分かりやすく言ってしまうと、次のようなことになります。
| 忠に関する名文は諸葛孔明の「出師表」であり、孝に関する名文は李令伯の「陳情表」であり、
友(友情)に関する名文は韓退之の「十二郎を祭る文」である。 |
一般的に諸葛亮の文章だけが取り上げられることが多いわけですが、
実際は諸葛亮・李蜜・韓愈の三名があげられた中での一文というのが正確な所です。
- 諸葛亮(諸葛孔明)「出師表」
- 李密(李令伯)「陳情の表(陳情事表)」
- 韓愈(韓退之)「十二郎を祭る文(祭十二郎文)」
五丈原での最期
建興12年(234年)、第五次北伐で諸葛亮は五丈原に布陣し、司馬懿と対峙しました。
しかし長期戦の最中に病に倒れ、54歳で陣中にて亡くなります。
遺言により葬儀は極めて質素に行われ、定軍山に埋葬されました。
蜀軍は撤退しましたが、司馬懿は慎重を期して深追いをせず、
この出来事から「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」という故事が生まれました。
ただし、この言葉は「蜀志」諸葛亮伝(裴松之注「漢晋春秋」)に見える逸話であり、『三国志』本文には記されていません。
諸葛亮は卓越した政治家であり、
行政・法制度・人材登用・外交・兵站運営など国家経営全般に極めて優れた能力を発揮しました。
一方で、軍事面については慎重な用兵を重視したため、大胆な決戦を避ける傾向がありました。
『三国志』の著者・陳寿も、そんな諸葛亮に対して次のような評価を与えています。
| 政治の才は管仲・蕭何にも比肩するが、臨機応変の軍略はやや及ばなかった。 |
それでも、人口・国力とも魏に遠く及ばない蜀漢を十年以上にわたり安定させ、
北伐を継続できたことは、諸葛亮の卓越した統治能力を示すものです。
今日でも諸葛亮は、知略だけでなく、
誠実さ、忠義、勤勉さを兼ね備えた理想的な政治家として、中国・日本を問わず高い人気を誇っています。
『三国志演義』での諸葛亮
『三国志演義』では、諸葛亮は史実以上に神秘的で万能な軍師として描かれています。
代表的な逸話として、
- 草船借箭
- 東南の風を祈る借東風
- 空城の計
- 木牛流馬死せる
- 諸葛、生ける仲達を走らす
などがあります。
これらは物語として非常に有名ですが、
多くは演義や後世の伝承による創作・脚色であり、『三国志』正史には記載されていません。
一方で、「三顧の礼」「隆中対」「出師表」「南征」「五度の北伐」「五丈原での最期」などは正史にも記録されている史実です。
演義では「神に近い軍師」として描かれますが、
正史の諸葛亮は、卓越した政治力と行政能力、そして生涯を通じて蜀漢に尽くした忠臣としてこそ、その真価があったといえるでしょう。






