天下三分の計とは何か?

「天下三分の計」とは、後漢末の群雄割拠の時代において、
中国全土を三つの勢力圏に分けることで均衡を保ち、最終的に天下統一を目指すという戦略構想です。
一般には「諸葛亮が提唱した戦略」として知られていますが、
実際には蜀の諸葛亮だけでなく、呉の魯粛もまた極めて近い構想を抱いていました。
そのため、天下三分は一人の天才が考え出した奇策というよりも、
当時の情勢を正確に分析した結果として自然に導き出された戦略だったと考えられています。
諸葛亮の『隆中対』
「蜀志」諸葛亮伝には、劉備が諸葛亮を三度訪ねた「三顧の礼」の際、諸葛亮が語った戦略が記録されています。
いわゆる「隆中対」です。
| 「諸葛亮は劉備に対し、曹操はすでに北方を掌握している。
孫権は江東に確固たる基盤を築いている。この二者と正面から争うべきではない。」 と分析しました。 |
その上で、
- 孫権と同盟する
- 荊州を確保する
- 益州を獲得する
- 機会を見て北伐する
という構想を示しています。
これはまさに後の「魏・蜀・呉」という三国鼎立体制を予見したものでした。
そのため、「天下三分の計=諸葛亮」という認識は決して間違いではありません。
実際に正史に残る構想だからです。
魯粛の『榻上策』
一方で呉にも同様の構想が存在しました。
それが魯粛の「榻上策(とうじょうさく)」です。
「魯粛は若き日の孫権に対して、漢王朝はすでに再建不可能である。
曹操が北方を支配するだろう。孫氏は江東を基盤として独立政権を築くべきである。」
と進言しました。
さらに、将来的には長江流域を掌握し、天下を三分する体制を築くべきだと説いています。
実際には、魯粛の構想の方が諸葛亮よりも早い時期に提案された可能性が高いと考えられています。
そのため、呉の立場から見れば
「天下三分を最初に唱えたのは魯粛だ」という評価も成り立ちます。
榻上策の内容
榻上策とは、魯粛は孫権に対して、おおよそ次のような趣旨の戦略になります。
ちなみに「呉志」魯粛伝に残されているのが以下の内容です。
| 昔高帝區區欲尊事義帝而不獲者、以項羽為害也。
今之曹操、猶昔項羽、將軍何由得為桓文乎。 肅竊料之、漢室不可復興、曹操不可卒除。 為將軍計、惟有鼎足江東、以觀天下之釁。 規模如此、亦自無嫌。何者?北方誠多務也。 因其多務、剿除黄祖、進伐劉表、竟長江所極、據而有之、然後建號帝王以圖天下、此高帝之業也。」 |
① 漢王朝はもはや再興できない
魯粛はまず、漢王朝は既に衰えきっており、再建は不可能である
と冷静に分析しました。
当時の多くの人物は「漢王朝復興」を建前にしていましたが、魯粛は現実主義者でした。
② 曹操は容易に倒せない
魯粛はさらに、曹操は天子を奉じており、軍事力も圧倒的である
と評価しています。
後世の演義のように曹操を軽視していません。
むしろ魯粛は曹操の実力を非常に高く見ていました。
そのため、面から戦って倒そうとしてはならないと考えたのです。
③ 江東を固める
魯粛はまず、
長江流域の支配を盤石にするべきだと主張しました。
つまり
- 揚州
- 江東諸郡
を確実に掌握することです。
国家の基盤を固めることを優先したわけです。
④ 荊州を獲得する(黄祖・劉表の討伐)
魯粛は、長江中流域に位置する荊州を重視しました。
そして荊州は軍事・経済・交通すべてにおいて重要な地域であり、荊州を取得に成功させるというものでした。
後に魯粛が劉備との同盟を重視した理由も、荊州問題と深く関係しています。
⑤ 益州を視野に入れる
さらに魯粛は、西方の益州(現在の四川盆地)にも注目していました。
益州は
- 天険に守られる
- 人口が多い
- 食糧生産力が高い
という巨大な戦略拠点でした。
⑥ 最終的に天下を争う
魯粛は孫権に、まず江東を固め、
次に荊州を確保し、その後に天下を争うべきだと説きました。
つまり、黄祖・劉表を滅ぼして荊州を奪うという視点から見る限りは、
現状におちての天下三分であって、周瑜が掲げた天下二分の戦略に似ている所があります。
兎にも角にも魯粛の戦略は、
「今すぐ曹操と決戦するな。まず国力を蓄えよ」という長期戦略だったわけです。
諸葛亮「隆中対」と魯粛「榻上策」
-共通点-
- 荊州を重視
- 益州を重視
- 曹操と正面決戦を避ける
- 長期戦略を重視
という点で非常によく似ています。
-違い-
魯粛の榻上策
- 呉中心の構想
- 孫権が主役
- 江東を基盤に天下を狙う
諸葛亮の隆中対
- 劉備中心の構想
- 劉備が主役
- 荊州・益州を確保して北伐する
という違いがあります。
天下三分は誰の発想なのか?

ただし、「天下三分の計を最初に考えた人物は誰か」という議論はあまり意味がありません。
なぜなら、天下を三勢力に分けて均衡を保つという発想は、三国時代以前から存在していたからです。
ちなみに三国時代以前の天下三分についてですが、
『論語』泰伯篇には、
「周の文王について天下を三分して、その二を有した(三分天下有其二)」
という記述があります。
| この言葉は『論語』の中で、孔子が文王の偉大さを讃えた一節です。
三分天下有其二、以服事殷。 「天下の三分の二を領有していながら、 なおかつ殷の王(紂王)に服従して仕えた」という意味になります。 |
文王には、いつでも殷を滅ぼして天下を奪うだけの実力がありました。
しかし、暴君として知られる殷の紂王に対して、
武力で奪うのではなく、あくまで「臣下としての節義」を守り抜きました。
この私欲を捨て、天命を待ちながら国力を蓄えた姿勢が、
後世の儒家たちから「最高の徳」として絶賛されることになります。
また正史『史記』では、
「楚漢戦争期に蒯通が韓信へ天下を三分し、鼎の三足のように鼎立すべきだ」
と進言しています。
つまり、天下三分という考え方そのものは、三国時代になって突然生まれたものではありません。
古代中国では広く知られた政治・軍事思想の一つだったのです。
したがって正史に基づけば、
「天下三分の計は諸葛亮だけの発想ではない。
しかし諸葛亮もまた天下三分を構想した重要な人物である」
というのが最も公平で正確な評価と言えるでしょう。






