三国時代の特殊部隊として真っ先に思い浮かぶのは、
青州黄巾賊によって構成され、
曹操が飛躍させるきっかけとなった「青州兵」でしょうね。
他にも許褚が率いた精鋭歩兵部隊「虎士」、曹純が率いた精鋭騎馬隊である「虎豹騎」、
これらは曹操の領土拡大に大きな貢献したことは有名です。
そんな精鋭と呼ばれる特殊部隊は魏だけでなく、呉・蜀にも存在していました。
今回は呉に存在した「敢死兵」「解煩兵」「無難兵」についての紹介です。
目次
敢死兵/かんしへい(致死兵)
敢死兵は名前から見て既にやばそうな雰囲気がプンプンするんですが、
これは名前の通り、「自ら死に望む兵士」という部隊になりますね。
つまり「戦況を打開する為には死をも恐れない部隊」ということですね。
まぁ「特攻部隊」と言った方が分かりやすいかもしれません。
この部隊の長(リーダー)に就任したのが、
董襲・凌統・韓当ですね。
それぞれに命がけで呉の為に命を懸けた者達で、
そういった描写が三国志演義にも描かれたりもしているために、
なんとなく納得できるんじゃないかなと思います。
董襲・凌統率いる敢死兵
はじめにこの敢死兵を率いたのが董襲・凌統だと言われています。
董襲はこの敢死兵を率いた活躍が描かれるのが、
孫家にとって長らく因縁の相手である黄祖との戦いでした。
- 191年、孫権の父である孫堅が討たれる
- 199年、劉勲との延長戦上の戦いで周瑜が勝利を収めるも、黄祖を取り逃がす(周瑜・程普・黄蓋・韓当・呂範等が参加)
- 203年、黄祖によって敗北(凌操の戦死・徐琨の戦死など)
そして208年に呉は総力戦ともいえる面子で、黄祖討伐に乗り出します。
この戦いで活躍したのが董襲・凌統率いる敢死兵でした。
黄祖は川上に陣取り、川下に陣取った孫権ですが、
黄祖は二隻の蒙衝(船)を左右に並べ、船を矴(碇)で固定していました。
そして黄祖は、千人の兵を配置して矢を乱射してきたといいます。
これにより孫権軍は大いに苦しめられてしまいます。
この時に矢の雨をかいくぐって命がけで攻撃を開始したのが、
董襲・凌統率いる敢死兵だったのです。
この時董襲・凌統は自ら先頭に立ち(普通指揮官は先頭には出ません)、
矴(碇)で固定していた紐を切り離し、蒙衝を流して黄祖の防御態勢を壊します。
それに乗じて総攻撃がしかけられ黄祖軍は壊滅!!
董襲・凌統の活躍によって黄祖は討ち取られ、
長く続いた黄祖との因縁に決着がついたのでした。
最後に補足しておくと、
董襲・凌統は黄祖の防御網を壊すために各々百人(一説には数十人)程度の決死隊を募ったとあるので、
この黄祖討伐戦で敢死兵が誕生した可能性が高いですね。
第一次濡須口の戦いで散った董襲率いる敢死兵
横山光輝三国志(37巻96P)より画像引用
212年に起きた第一次濡須口の戦いでは、
董襲が指揮してい船が、強風によって操作不能になってしまいます。
船が転覆しそうになった際に、
さすがに一旦避難するように董襲に周りの者も進言します。
しかし董襲は、「任された任務を放り投げて逃げる者は斬るぞ!」と言って、
最後の最後まで持ち場である場所から離れなかったそうです。
結果として董襲が率いていた船は当たり前のように転覆してしまい、
董襲が率いていた敢死兵は全滅してしまったと思いますね。
合肥の戦いで散った凌統率いる敢死兵
横山光輝三国志(37巻48P)より画像引用
敢死兵を率いた凌統の描写がされているのは、
第一次濡須口の戦いから3年後に起こる合肥の戦いでした。
この時の呉軍は、張遼が守る魏軍より多くの兵を率いていたにもかかわらず、
鬼人ともいえる張遼の強襲によって呉軍は壊滅寸前まで追い込まれます。
ここで孫権を守る為に殿を引き受けて獅子奮迅の働きをしたのが、
凌統率いる300人の敢死兵でした。
孫権を逃がすために命がけで敵に突撃するも、
敢死兵のほとんどが討死する始末・・・
最後に生き残って孫権の元まで辿りつけたのは、凌統一人でした。
しかしその凌統も大きな怪我を負っており、かろうじて生還できたほどだったようです。
韓当が率いた敢死兵
董襲・凌統の敢死兵が全滅したことで
敢死兵の記述はしばらく消えることになるのですが、
次に敢死兵の名前が現れたのが、
韓当の丹陽の賊討伐戦でした。
この時に韓当は、
敢死兵と共に解煩兵併せて一万人を率いたというものです。
韓当は敢死兵・解煩兵を率いて見事に賊を討伐したわけです。
その後の敢死兵についての記載は見られません。
おそらく活躍の場面はあったでしょうが、
最後に記録が残るのはあくまで韓当が率いて丹陽の賊を討伐したというものですね。
解煩兵(かいはんへい)
解煩兵は、敢死兵と並ぶ呉の特殊部隊になりますが、
敢死兵が死を恐れない特攻部隊とすれば、
解煩兵は私情を挟まずに敵を滅ぼす殲滅部隊と考えてもらえればいいかなと思います。
もう少し分かりやすい例でいえば、
敵が血を分けた親兄弟が敵だったとしても迷わずにうち滅ぼすという意味ですね。
正史を読む限り、最初に解煩兵が登場するのは夷陵の戦いの時であり、
胡綜という人物が徴兵したことが記録されています。
そしてこの解煩兵の右部隊のリーダーに選ばれたのが胡綜であり、
一方の左部隊のリーダーに選ばれたのが徐詳という人物だったようです。
この時に胡綜・徐詳によって率いられたのが解煩兵の始まりというわけです。
そんな解煩兵についての逸話ですが、
敢死兵の所でも述べたように丹陽郡の賊討伐時に、
韓当が敢死兵・解煩兵を率いたという記録があるので、
その時には敢死兵・解煩兵ともに韓当がその長に任じられていたのでしょう。
次に解煩兵が登場するのは、陳武の息子である陳修(陳脩)が、
解煩督(解煩兵の長・リーダー)に任じられたと記載があったりするので、
韓当が226年に亡くなった後のどこかのタイミングで、
陳修が解煩兵を任せられ、陳修が229年に亡くなるまで率いたという事でしょうね。
解煩兵についての記録はこの程度で、
敢死兵と比べて戦いの記録としてはあまり残っていません。
無難兵(ぶなんへい)
無難兵は魏・蜀で言うところの近衛兵みたいな任務になります。
皇帝を守る役割を担った兵士という立場ですね。
無難兵の名前が正史に登場しているのは、
孫権の後釜を継いだ孫亮が、権力を乱用していた孫綝を排除する為に、
全尚と謀って孫綝を駆逐しようとしていました。
この時に無難兵を率いてという記述があったりします。
ただこの計画は事前に漏れてしまい、
孫綝によって逆に全尚は捕まってしまい、全一族は流罪の憂き目にあったのでした。
一方の孫亮は廃位させられ、孫休が跡を継いでいます。
ちなみに無難兵の長に任命された人物として紹介するとしたら、
殷基・孫震・陳正・孫慮などがあげられますね。
他に無難兵の名前が登場するところとして、
無難兵の中に盗みを働いた施明という人物がいました。
「仲間は他に誰がおるか!」と問われた施明ですが、
どんな拷問を与えても固く口を閉ざしていた際に、
この時に陳表(陳武の息子)に取り調べを任されることになります。
陳表は施明の手足の枷を外して入浴させ、
立派な衣服を与え、食事を与えるという対応をしたそうです。
この対応に感じ入った施明は罪を謝罪し、窃盗を働いた仲間のことも打ち明け、
奇跡的に罪を許された施明は、後に将軍まで上り詰めたといった話があったりします。
無難兵の活躍らしい活躍は正史に全くといっていいほど残っていませんが、
無難兵についての記載が残る部分を紹介させてもらいました。
他にも晋軍との戦いで登場している沈瑩率いる青巾兵といった特殊部隊もあったりします。
今回紹介した呉の特殊部隊も出そうですが、
名前こそ登場しているものの記載が限られている者が多いですね。
これは魏蜀に関しても同じことが言えるんですけど・・・
ちなみに青巾兵についての描写はこちらの記事で記載しているので、
気になる方は読まれてみてください。