西南シルクロード&諸葛亮

横山光輝三国志(45巻184P)より画像引用

 

諸葛亮の南中討伐は、人材の確保であったり、

 

民衆・兵の確保が目的であったり、

資源確保が目的であったと一般的に言われます。

 

 

もちろん蜀漢に反旗を翻した雍闓・高定・朱褒の討伐であったり、

 

「三国志演義」では南蛮王として登場する、

孟獲らの討伐の必要性があったことは言わずもがなです。

 

特に雍闓の反乱を引き起こし、裏側で繋がっていた孫権の存在もあったからこそ

討伐するのは必須であったことは間違いない事実ですね。

 

 

ただそんな中で私は諸葛亮の南中討伐戦、

その後の益州南部の立ち位置で蜀漢の経済を支えた存在として、

西南シルクロードがあったと私は思っています。

 

 

敦煌などの北方シルクロードは非常に知られた有名なルートですが、

 

調べれば調べるほど西南シルクローはそれよりも古い歴史があり、

多くの謎に包まれたルートでもあり、魅力に溢れたルートだと思わせてくれる道でもあります。

西南シルクロード&張騫

秘境・西南シルクロード(14P)より画像引用

 

司馬遷の「史記」には、次のような逸話が残されています。

 

時代は劉邦が建国した前漢の武帝(第七代皇帝・劉徹)の時代、

張騫が匈奴対策として大月氏と同盟を結ぼうと派遣されます。

 

張騫が大夏に行きついた際に蜀産の布や竹杖を見つけて驚いたといいます。

 

そこで商人にそのことを尋ねると、インド(身毒)で購入したものであり、

インドから成都へと続く道の存在がある事を教えられたのでした。

 

 

そして帰国した張騫が武帝に報告したことで、

武帝が西南シルクロードの道を開拓すべく、益州南部へと進出した事が記録として残されています。

 

 

結果的にインドまで続く道は、

昆明付近の異民族の抵抗もあって実現できなかったようですが、

 

それでもこの西南シルクロードの道の存在が、

少しずつ知られるところとなっていったのは言うまでもないでしょう。

 

ちなみに余談ですが、葡萄などを中国へと伝えたのも張騫だとされています。

西南シルクロードに関する書籍(三冊紹介)

秘境・西南シルクロード(孔健)

目次

 

四川の考古と民族(C.ダニエルス&渡部式)

目次

 

西南シルクロードは密林に消える(高野秀行)

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