三国志にある程度詳しい人なら理解されてると思いますが、
三国志正史と三国志演義での人物の描写がかなり違ったりするのは結構な頻度であります。
分かりやすい例をあげると、
赤壁の戦いを前に周瑜の策で殺された蔡瑁なんてそもそも死んでいませんし、
黄蓋の苦肉の策を曹操に信じさせるために、
蔡瑁の従弟として登場した蔡和・蔡中はそもそも存在していません。
あくまで物語を面白くする為の設定で生み出されたにすぎません。
そんな風に、真実の歴史とは違った視点から描写されたり、
無から作り出された人物が多く登場するのが三国志演義ですからね。
関羽が荊州を守れずに処刑された際も、
正史と捻じ曲げられて三国志演義に描写された人達も沢山います。
ここでは関羽に関わり、
正史と演義の内容が明らかに違う人達を紹介してみたいと思います。
目次
王甫(おうほ)
横山光輝三国志(42巻69P)より画像引用
三国志演義では、関羽と共に荊州の守備を任されますが、
荊州失陥の最大要因となった傅士仁・糜芳を警戒しており、
趙累に守備を任せるように進言。
また麦城から関羽が脱出しようと試みた際は、
間道には伏兵がいるだろうから普通に街道を通るようにアドバイスと
なかなかの優れた人物としての描写がされています。
しかし関羽は王甫の言を全く聞かずに、
傅士仁・糜芳の裏切りにあって荊州の大部分を失ってしまうばかりか、
その延長線上に自らの死へとつながっていきます。
最後に援軍を求めるために自ら麦城を脱出した際も、
王甫が言ったように間道に隠されていた呉の伏兵にあって捕らえられていますし・・・
そして関羽の死を知った王甫は、
城壁から飛び降りて関羽の後を追って自殺という描写がされています。
三国志演義ではここまで述べたような優れた人物として、
また忠義の士として記載されています。
そして正史でも優れた人物であったことが記載されていますが、
関羽を追って死んだというわけではありません。
実際に王甫が死んだのは、関羽の復讐戦となる夷陵の戦いで命を落としています。
三国志演義では、関羽の後を追わせる形にした方が、
物語として美しかったこともあり、関羽死後に設定として変えられたのでしょうね。
廖化(りょうか)
横山光輝三国志(42巻89P)より画像引用
演義での廖化は、麦城に追い詰められた関羽が、
上庸の劉邦・孟達の元へ廖化を使者として援軍要請に行かせるものの、
孟達の反対にあって援軍を出すことを断られてしまいます。
劉封・孟達からの援軍が期待できなくなったことで、
二人を罵りながら、劉備のいる成都まで足を運ぶことに・・・
廖化がやっとのことで成都の劉備の元へ到着した頃には、
関羽・関平らは呉軍に捕らえられて処刑されてしまっていました。
廖化は、関羽が死んだのは援軍を出さなかった劉封・孟達のせいだと訴え、
罪を恐れた孟達は魏へ走り、劉封は処刑されてしまいます。
正史では関羽らが処刑された後、廖化は呉軍へ降伏。
しかし劉備の元に帰りたいという気持ちが強すぎた為に、
自分が死亡したという噂を流し、密かに呉を脱出。
益州へ向かっていた廖化ですが、
関羽の復讐戦として呉討伐へ乗り出していた劉備と遭遇することになります。
廖化が呉から帰ってきたことに劉備自身も大変喜び、
廖化自身も劉備の元へ戻れたことに対して大変な喜びようだったといいます。
そのまま夷陵の戦いに参加する事になるのですが、
夷陵の戦いでは蜀軍の惨敗。
劉備死後も蜀の為に尽くし、蜀が滅んだ翌年にこの世を去っています。
呂蒙(りょもう)
横山光輝三国志(42巻73P)より画像引用
荊州奪還に成功し、関羽を処刑へ導いた張本人ですが、
それからしばらくして関羽の亡霊にとりつかれてしまいます。
そして呂蒙の体を乗っ取った関羽は、孫権に襲い掛かり、
「私が誰だか分かるか、ゴラァ!」などと叫びだしたかと思うと、
「私は関羽雲長である!
呂蒙の罠にかかってしまったが、せめて呂蒙の命を道ずれにしてやる!」
と言い放つと、呂蒙は体中から血を噴き出して死んでしまいます。
関羽を死においやった呂蒙に対して、
三国志演義では、すさまじい最期を与えたわけです。
一方の正史はどう記載しているかというと、
関羽の死から間もなくして病気にかかり、静かに息を引き取ったと書かれています。
偶然にも関羽の死から少しして亡くなった呂蒙を、
演義は大いに利用したのでしょうね。
曹操(そうそう)
横山光輝三国志(42巻150P)より画像引用
関羽が死んだことで、
呉国内では劉備が全力で攻めてくることを恐れた孫権は、
関羽の首を曹操に送りつけ、
関羽を襲わせた犯人が曹操であるように見えるように仕組みます。
曹操は呉の思惑を理解しつつも、
関羽の首をたらい回しにはできないと考えた曹操は、
国葬をもって、手厚く関羽を弔ってあげました。
そしてそれから間もなくして、曹操は病気の為にこの世を去ります。
これが一般的な正史の話ですが、
三国志演義では関羽の呪いで死んだかのように書かれています。
馬忠(ばちゅう)
横山光輝三国志(42巻72P)より画像引用
関羽を最終的に捕縛したのが馬忠という人物ですが、
蜀の馬忠とは同姓同名ですが、二人は全く違う人物になります。
正史に「関羽を捕縛した」とのみ記録が残る馬忠ですが、
演義の方では、関羽を捕縛した褒美として関羽が乗っていた赤兎馬を賜ります。
しかし赤兎馬はまったく草を食べず、そのまま餓死してしまいます。
そして傅士仁・糜芳に寝首をかかれる形で最期を・・・
関興・張苞(かんこう・ちょうほう)
横山光輝三国志(43巻169P)より画像引用
関羽が処刑されて、劉備・張飛の悲しみが大きく、
張飛に後押しされるような形で関羽の復讐戦を呉へ挑むことになったわけですが、
関羽復讐戦に燃える張飛が部下の范彊・張達に寝首をかかれて死んでしまいます。
張飛の寝首をかいた二人はそのまま呉へ投降。
張飛が殺され、殺した二人が呉へ逃亡したと聞いた劉備は、
更に悲しみを募らせ、呉への侵攻を開始します。
この時に関羽・張飛の息子であった関興・張苞が劉備の元を訪ね、
劉備を支えながら二人は大活躍します。
夷陵の戦いで敗北を喫して、劉備が白帝城で亡くなったのちも、
諸葛亮の元で北伐で多くの活躍をしていくわけけですが、
一方の正史の方はというと、二人は全くと言っていいほど活躍していません。
関羽の息子ということで関興は、
周りから期待はされていたようですが早世していますし、
なにより夷陵の戦いなんて参加していません。
張苞なんて張飛が死んだ時には、既に亡くなっている状態ですからね。
潘璋(はんしょう)
横山光輝三国志(44巻44P・46P)より画像引用
潘璋は、関羽討伐の功績を上げており、
関羽を捕らえた馬忠の上司にあたる人物でした。
潘璋は褒美として、関羽が使っていた青龍偃月刀を賜っています。
劉備が呉への侵攻を開始した際には、
たまたま鉢合わせた関羽の息子である関興に討ち取られました。
勿論関羽が使っていた青龍偃月刀もこの時に取返し、
その後は関興によって使われていきます。
一方正史の方では三国志演義で記載されていたようなことは全くなく、
234年まで生きて天寿を全うしています。
そもそもこの時代に青龍偃月刀なんてものはありませんしね・・・
傅士仁・糜芳(ふしじん・びほう)
横山光輝三国志(44巻68P)より画像引用
傅士仁・糜芳の裏切りのせいもあって、
関羽は破滅への道を歩むことになるのですが、
劉備が関羽の復讐戦として呉への侵攻を開始し、
呉軍は敗戦に次ぐ敗戦で危機的状況に陥いります。
この時に元荊州の兵士だった者達は、
傅士仁・糜芳らは自分らの首を取って蜀へ帰参しようと考えます。
兵士の話をたまたま聞いた糜芳・傅士仁は、
敵からも味方からも命を狙われたのではどうしようもないと判断し、
関羽を最終的に捕縛した馬忠の首を討って、先に劉備へ降伏。
劉備の怒りはすさまじく、傅士仁・糜芳は劉備より処刑を通告され、
関興によって処刑されるというのが演義の話ですが、正史の方は違います。
孫権は傅士仁・糜芳を劉備の元へ送りつけるようなことはしておらず、
傅士仁も糜芳は生涯呉に仕えています。
范彊・張達(はんきょう・ちょうたつ)
横山光輝三国志(44巻79P)より画像引用
張飛の寝首を書いて呉へ投降した范彊・張達の二人ですが、
劉備の快進撃に恐れた孫権は、
張飛殺害の犯人である二人を劉備の元へ送り、和議を結ぼうとしました。
劉備の怒りは強く、和議を拒否した上で、
息子であった張苞に范彊・張達を斬らせて父の仇を取らせています。
一方の正史では、呉へ投降した後の范彊・張達の行方は不明です。
演義ではそこを利用して、
劉備の仇討ちの材料として利用されたという事ですね。
終わりに
関羽の死にまつわる周りの人物を紹介してきましたが、
三国志演義では劉備が主人公であり、
劉備の義兄弟にあたる関羽・張飛も準主人公にあたる立場になります。
だからこそ関羽に仇なした者達には不遇の死が与えられていますし、
逆に関興や張苞といった関羽や張飛に直結する人物には、
史実以上の大きな役割が与えられています。