許劭によって曹操は、
「治世の能臣、乱世の奸雄」と称されたことは有名な話ですが、
それ以外にも曹操は多くの人物から高い評価を受けていました。
今回はそんな曹操に由来する
「錦を衣て昼行く」という言葉の紹介です。
天下の傑物、曹操
曹操が多くの人々から高く評価されたのには理由があり、
曹操は文武に優れた人物であり、多くのことを現在に伝えています。
私達が目にする「孫氏の兵法書」なんてものは、
その筆頭と言っていいかもしれません。
曹操は誰にでも読みやすくそれまであった「孫氏の兵法書」に注釈を加え、
誰もが読みやすい兵法書にしています。
曹操が注釈を加えたのが「魏武注孫氏」になるのですが、
それが現在に伝わっているわけです。
ちなみに武田信玄の旗印である「風林火山」は、
孫氏の兵法書の中の言葉ですが、
武田信玄が「風林火山」を知ったのも曹操のお陰ということになるんですよね。
https://daisuki-sangokushi.com/2018/10/07/%e6%9b%b9%e6%93%8d%e3%81%ae%e3%80%8c%e9%ad%8f%e6%ad%a6%e6%b3%a8%e5%ad%ab%e6%b0%8f%ef%bc%88%e5%ad%ab%e6%b0%8f%e3%81%ae%e5%85%b5%e6%b3%95%e6%9b%b8%ef%bc%89%e3%80%8d/
それ以外にも曹操が後世に与えた影響ははかりしれないほどありますが、
他にも軽く紹介すると、三国時代の酒の醸造法を後世に資料として残したのも曹操ですしね。
錦を衣て昼行く(錦を着て昼行く)
曹操は息子の曹丕・曹植と共に、中国の文学史に多大なる影響を与え、
新しいスタイルの五言詩を確立し、これは後世で「建安文学」と呼ばれるようになります。
曹丕と曹植の「七歩の詩」は有名な話で、
曹植が非常に優れていたことは今にも伝わっていますが、
曹操・曹丕も非常に文学の発展に貢献したほどの優れた人物だったのです。
そして今回紹介する「錦を衣て昼行く」は、
曹操らしさが出ている言い回しの一つなんじゃないかと思いますね。
どういう場面でこの言葉が使われたかというと、
それは張既が雍州刺史に任じられた際のことでした。
張既が雍州刺史として任地へ旅立つ際に、
曹操は「衣錦昼行(錦を衣て昼行く」と言ったわけですが、
これは雍州が張既の生まれた地域のすぐそばだったことで、
張既に対してその言葉をかけて見送ったのでした。
意味は「お前が雍州へ素晴らしい着物をまとって昼に帰郷するのは、
出世を遂げた自分自身の姿を見てもらうための凱旋である!」といった感じになります。
今でも耳にすることもあると思いますが、「故郷へ錦を衣て帰る」と同じ意味合いですよね。
「錦を衣て昼を行く」の語源
曹操が張既に対して用いた「錦を衣て昼行く」は、
もともと秦の圧政に怒りを覚えて決起した項羽に由来する言葉です。
項羽は秦の都である咸陽を陥落させて秦を滅ぼした際に、
項羽の臣下らは、
「項羽が地元であった楚ではなく、
中央に居ることで天下を治めることが可能である」と言った際に、
項羽はその返しとして「錦を衣て夜行くが如し」と言い、
中心地であった地域を他の者に任せて、
項羽自身は自分の故郷であった楚(都:彭城)に戻っていったのです。
まぁこれがもとで、劉邦に付け入る隙を与えてしまい、
最終的に項羽は討ち取られてしまい、劉邦が漢王朝を建てれたのですが・・・
意味合いは曹操が言った「錦を衣て昼行く」と同じになります。
正確に言うと「無事に目的を果たして故郷に凱旋をしないのは、
素晴らしい着物を着て夜道を行くのと全く同じである。」と言った感じですね。
曹操はこの項羽に由来する言葉をそのまま引用するのではなく、
曹操なりにもじって、「錦を衣て昼行く」という表現をしたのでしょう。
華僑と「錦を衣て昼行く」
中国には「海水至るところに華僑あり」という言葉があります。
これは中世以降に貿易業の発展によって、
多くの中国人が世界各地に進出して、海外を拠点に根を下ろしたといった意味ですね。
そんな華僑らが故郷に錦を飾った例が中国各地にみられます。
広州の黄埔古村にある「日本楼」なんかは、
オランダ風の窓硝子で、
レンガ造りのオランダ屋敷(日本の長崎)に非常に似た楼(建物)があったりします。
これは日本に移住した華僑が、
一時帰郷した際に、自分の代わりに「楼」を作ったのだそうです。
また日本の長崎に見られたオランダ様式だけでなく、
ローマ様式・アメリカ様式・ギリシャ様式など様々な「楼」が作られていたりもしますね。