孫権の巨大戦艦「長安」

三国志軍事ガイド(172P)より画像引用

 

孫権が武昌で「長安」という巨大戦艦を作り上げ、

進水式を取り行ったことが「江表伝」に残されています。

 

もう少し正確に言うと、

「呉志」呉主伝に裴松之が注釈を加えた「江表伝」という感じですね。

 

 

ちなみに孫権が武昌を都としたのは、

221年に公安から「鄂」に移って「武昌」に改名し、229年まで首都であったとされています。

 

229年以降は建業に首都を移していますので、

この間に大型戦艦「長安」が作られたと推測できたりします。

 

 

そして大型戦艦「長安」に孫権が乗り込み、

気分を良くした孫権が羅州まで行くように命じたわけですが、

 

ここで大風が吹き荒れる事態になってしまいます。

 

 

それでも「羅州へ向かえ!」と命じる孫権に対して、

部下の谷利が自らの命をかけて、「操舵手に樊口へ戻れ!」と命じた逸話が紹介されていますね。

 

孫権は何を怯えているのかと問いただしたのに対して、

谷利は孫権の身に、もしものことがあったらと深く案じた事を真剣に話します。

 

これを聞いた孫権は大変に感激し、今まで以上に谷利を大事にしたといいます。

 

 

この逸話は曹丕の死につけ込む形で、

黄武五年(226年)に孫権が文聘が守る江夏(石陽)を攻めた際の年に補足されていますので、

 

「長安」の進水式が行われたのは226年に絞れるという事ですね。

 

 

ちなみに孫権自ら五万人を引き連れて挑んだ戦いでしたが、

文聘の空城の計に敗れているのは余談です。

 

このことは「魏志」文聘伝に加えられた「魏略」に書かれてあります。

 

ただ本文では、孫権が籠城する文聘を攻略できず退却するわけですが、

追撃されて破れたように記録されていますね。

 

巨大戦艦「飛雲」

蒼天航路(26巻54P)より画像引用

 

巨大戦艦「飛雲」についての記載は、「呉志」周瑜伝に記載が見られます。

正確に言うと、裴松之が注釈に加えた「江表伝」なので、「長安」と出処は同じになります。

 

そこには次のような記載が残されています。

 

 

劉備が孫権と京城(京口)での会見後に帰還する際、孫権は大船「飛雲」に乗って見送ったとあります。

 

その際に孫権と共に名が挙がっているのが、

「張昭・秦松・魯粛ら十余人と共に追送した」とありますね。

 

これらの者達は分かれる前に船の上で宴会を開いたようで、

宴会終了後には、劉備と孫権が語らったとあります。

 

その中で劉備は周瑜について高く評価し、

「周瑜殿は文武に優れた人物であり、器量の大きな人物で、

いつまでも人の下にいるような人物ではないでしょう。」

といったようなことが書かれてありますね。

 

 

少し飛雲と関係ない逸話まで語っていますが、

とにかく京城(京口)から劉備を見送る際に、孫権が見送った船が飛船だったわけです。

 

ただ巨大戦艦だった事は言葉からも推測が可能ですが、

これがどういった機能を持った船だったかは「江表伝」からは分からない状態ですね。

 

 

おそらく「長安」同様に多くの者達を載せる機能に重きを置いたものであり、

 

総大将や指揮官が乗る巨大船「楼船」の類のものですので、

楼船同様に戦闘能力としては低かったであろうことは想像にかたくありません。

「呉都賦」に記載が残されている巨大戦艦「飛雲」「蓋海」

文選(賦篇/上)明治書院より漢文&書き下し文(291P)引用

 

左思「三都賦」を著した事で知られており、

 

皆が競って摸写を行った為に、

晋都であった洛陽の紙の価値が高くなったことで知られる人物ですが、

 

この「三都賦」には「魏都賦」「呉都賦」「蜀都賦」の三つから成立しています。

 

 

勿論ですが「三都賦」は、上記のように分かれている点からも、

三国時代の魏呉蜀の都について書かれた賦であったのは言うまでもありません。

 

 

陸遜の孫である陸機が「三都賦」を見て、

あまりの素晴らしさに感嘆した逸話が残されていたりもしますね。

 

そんな三都賦の中の「呉都賦」には、

飛雲と蓋海なる巨大船の名前が登場していたりします。

 

 

ちなみに三都賦(呉都賦・蜀都賦・魏都賦)は文選に収録されていますので、

機会があれば読んでみられてください。

 

ここでは飛雲・蓋海が掲載されている所だけを紹介します。

嶰澗閴、岡岵童。罾罘滿、效獲衆。

迴靶乎行邪、睨觀魚乎三江。

汎舟航於彭蠡、渾萬艘而旣同。

弘舸連舳、巨檻接艫。飛雲蓋海、制非常模。

疊華樓而島跱、時髣髴於方壺。

比鷁首而有裕、邁餘皇於往初。

張組幃、構流蘇。開軒幌、鏡水區。

槁工檝師、選自閩禺。習御長風、狎翫靈胥。

責千里於寸陰、聊先期而須臾。

 

 

どんな内容かについては、

巨大戦艦(飛雲・蓋海)が記載された所をメインに紹介しますが、

 

「飛雲」「蓋海」はへさき(船尾)を連ね、巨大な楼船を並べているものになります。

 

これらは常識で測れる船ではなく、華やかな装飾に飾られた楼は層を成しており、

ある時は仙島(仙人が住むとされる島)が側にあるようにも思えるもののようです。

 

 

また別の時には、方壺の仙島にある楼台のようにも見える船でもあり、

大きさはいにしえの呉船「余皇」をはるかに凌ぐ程でした。

 

 

そして楼は豪華絢爛なもので、

船頭に関しては閩越・番禺から選ばれたものを用いており、

 

遠くより吹いてくる風の扱いにも適した作りで、

伍子胥の水神とも仲良くすることができる船だったといいます。

 

そして千里の行程をものともせず、

瞬く間に進むことができる機動性に富んだ船だったのでした。

 

 

説明の中で登場した単語で、分かりにくいだろうと思うものを軽く補足しておきますと、

「余皇」はかつて春秋時代の呉に存在していたとされる巨大戦艦であり、

 

伍子胥というのは呉に仕えた将軍の一人で、

呉の国に対して多大なる貢献をしたにもかかわらず、親の跡を継いだ王(夫差)との確執で、

最期は自害を強いられた挙句に、遺体を川に捨てられた人物でもあります。

 

そういった過去のいきさつからも、

伍子胥と長江は漢詩等の中でも結び付けられることが多いわけですね。

 

 

その一例として最後に一つ紹介しておきますが、

孫権と葛玄(仙人)の逸話として次のようなものがあったりします。

 

ある時に暴風によって葛玄の乗っていた船が沈没した事で、

孫権は急いで葛玄の捜索を命じたのですが、時間が経ってもみつけられませんでした。

 

そして孫権も諦めかけたまさにその時に、葛玄が水の上を歩いてきたわけです。

 

その時に孫権に語ったのが、伍子胥に招かれたので、

川底で先程まで共に酒を飲んでおりました」という言葉だったのです。

左思 -「三都賦」&「洛陽の紙価を高からしむ(洛陽紙貴)」-