荊州南部を獲得して土台を築く

赤壁の戦いで勝利した劉備・孫権軍でしたが、

劉備は領地をもってない放浪軍といっても過言でない立ち位置でした。

 

そこで劉備は、なにがなんでも領地獲得が目先の必須事項であり、

荊州南部に残されていた曹操勢力(元劉表・劉琮領土)の駆逐へと乗り出していきます。

 

 

そして劉備の行動を快く思わない人物がいました。

いわずもがな赤壁の戦いで、孫権・劉備連合軍を大勝利に導いた周瑜ですね。

 

「曹操撃退できたのは自分たちのお陰なのに・・・

何もしてないに等しい劉備がどさくさにまぎれて荊州南部奪おうとしてるの!?」

みたいな感じだったのだと思います。

 

 

また周瑜は「荊州・益州を攻略ししてから曹操と決戦する」という

天下二分という計略を持っており、

 

その為にも荊州をまず手中に収めておくことが、

「天下二分の計」の実現にもつながるという意味合いもあったでしょう。

 

そして周瑜の計画通りに進んだ場合、

最終的に涼州の馬騰や韓遂と同盟を結んで協力して曹操にあたるというものでした。

 

諸葛孔明の「天下三分の計」が有名ですが、

周瑜の「天下三分の計」の方がはるかに現実的な作戦だったのです。

天下三分の計

周瑜が描いた益州攻略からの「天下二分の計」

 

 

しかし周瑜も荊州侵攻をしていたものの、

曹仁が守る江陵の城攻略に約一年ほどの時間を要してしまいます。

 

劉備らはその間に荊州南部攻略に成功したのでした。

 

 

そして不運にも曹仁との戦いの中で周瑜は矢傷を負ってしまい、

その傷がもとで36歳の若さで亡くなってしまったのです。

 

それに伴って劉備にとっては幸いにも、

「天下二分の計」が実行に移される事はありませんでした。

 

 

それから周瑜の跡を継いだ魯粛は、もともと劉備に好意的な人物で、

劉備との同盟関係をより強固にしたいと考えていました。

 

赤壁の戦いでも孫権と劉備を結び付けるきっかけを与えた人物でもありますからね。

 

 

実際、諸葛亮が唱えた「天下三分の計」より、

もっと早くに「天下三分の計」の発想を持っていたのも魯粛だったので、

 

劉備や諸葛亮にとっては、最適の人物が後釜になったわけです。

「天下三分の計」の発案者は孔明じゃなかった!?

 

 

それにより劉備は魯粛を通してある条件を孫権と結ぶことになります。

ある条件とは「他の領地(益州)を手に入れるまで荊州南部を借り受ける」みたいなやつでした。

 

ただ孫権・魯粛としても今後も協力して曹操に対抗する為にも、

劉備にある程度の力を持っていてもらいたいというのが本音だったこともあり、

 

周瑜が不幸にもなくなったことで、両方の思惑が一致した形で実現した約束だったのです。

 

そして同盟の更なる強化する為に、

劉備と孫夫人(孫尚香/孫権の妹)と結婚もさせています。

正史から見る孫夫人(孫尚香) 〜曹操・孫権と並んで脅威とされた女性〜

【三国志演義】劉備を一途に愛した孫夫人(孫尚香)の生涯

劉備の益州侵攻

劉備は荊州南部を手に入れた事で益州攻略に乗り出します。

 

劉備・諸葛亮にとっても、

「天下三分の計」実現の為には益州攻略が欠かせない事だったからですね。

 

劉備は益州攻略に乗り出す前に、

事前に劉璋に不満を持っていた張松を抱きかかえていました。

 

 

張松は内部から劉備を自然に招く段取りをします。

 

まず劉璋に対して、

「劉備を招いて、外敵である張魯を倒してもらいましょう!」と提案。

 

そして劉璋は同族である劉備を招く事に賛成した形で、張松の提案を受け入れています。

 

そして仕組まれているとはしらない劉璋を心で嘲笑うかのように、

張魯討伐を名目に、劉備は益州攻略へと乗り出したわけです。

 

 

この時に荊州南部攻略戦で部下になった黄忠・魏延・龐統など新参者を連れて行ったのには、

 

劉璋に対する警戒心を抱かせない狙いがまず一つあり、

もう一つは孫権へのもしもの際の備えとして関羽・張飛・趙雲・諸葛亮などを荊州に留めおいたのでした。

 

孫権と約束を結んだとはいえ、

何が起こるか分からないのが戦乱の世だったからの対策ですね。

劉備の入蜀に賛成したor反対した劉璋臣下

益州攻略戦

最初こそ劉璋との約束通りに張魯討伐の名目で、

劉備は葭萌関かぼうかんに滞在していました。

 

 

益州攻略になかなか動き出さない劉備に対して、

 

龐統は三つの上中下策を提示し、

劉備に選択させることで益州攻略に乗り出すことを決意させたのでした。

  1. 上策:精鋭を引き連れて成都を急襲して成都を攻略する
  2. 中策:白水関の楊懐・高沛を荊州へ帰還する事を名目に呼び寄せて討ち取る
  3. 下策:一旦荊州へ帰還してから、その後のことを思案する

 

劉備は三つの中では一番安全策でもあった中策を選択し、

まず白水関を守る楊懐・高沛を斬り捨てて占領してしまいます。

 

そして黄忠・魏延らに命じて成都攻略への進路を取ることになります。

 

 

もともと白水関を守る楊懐・高沛の二人は、

劉備を荊州へ返すように劉璋に何度も進言していた事もあり、

 

劉備が帰還するというそぶりを見せれば、

喜んで見送りにくると龐統は読んでいたのでした。

 

そして喜びを郭芝ながらやってきた楊懐・高沛を討ち取り、

楊懐・高沛の兵を吸収する形で白水関を占領することに成功したわけですね。

 

 

最初こそスムーズに展開していたものの、

劉璋の臣下にも優れた者達もおり、苦戦を強いられていく事になります。

 

そして雒城攻略中に軍師であった龐統が流れ矢にあたって死亡したことで展開が急変!

劉備自身も追い詰められていくこととなります。

雒城攻略戦で死亡した龐統に入れ替わり、孔明が参陣したのは本当?

馬超の帰順

龐統の死亡と劉備の苦戦を強いられていた中で、

諸葛亮が趙雲・張飛を率いて劉備への援軍へとおとずれます。

 

これにより劉備は息を吹き返して反撃を開始!

雒城攻略に成功すると、その勢いのまま成都へと軍を進めていったのでした。

 

 

そんな中で漢中に身を置いていた馬超から

劉備の元へと「帰順したい!」という書簡が送られてきます。

 

馬超の名声は天下に知れ渡っていた事もあり、

劉備は馬超の帰順を心の底から喜んで迎えたといいます。

 

 

これに驚いたのが劉璋側でした。

馬超の勇名は益州の者達に響き渡っており、

 

成都を守る将兵はの士気は高く、

籠城する為にに十分な食糧も確保していましたが、

 

馬超の帰順を知った劉璋は、劉備軍に対して心の底から恐怖を抱くようになったといいます。

良くも悪くも自分の信念のもとに乱世を生き抜いた馬超

馬超&関羽の逸話

 

これは劉備が成都を攻略してから後の話になるのですが、

帰順した馬超を劉備が非常に厚遇している事を聞いて嫉妬したのが関羽でした。

 

関羽は劉備と離れて荊州を任されており、

自分の耳にまで聞こえてくる馬超が気になって仕方ありませんでした。

 

 

気になり過ぎて落ち着かない関羽は、

馬超についての質問を書簡にしたためて諸葛亮へと送ったわけです。

 

その書簡には次のように書かれていました。

「馬超は非常に優れた武人だと聞いているけれども、

実際どれぐらい凄い人物なのですか!?」

 

 

これを見た諸葛亮は、また関羽の悪い性格が出たなと瞬時に読み取り、

機転をきかせた回答をしたといいます。

 

その内容は「張飛殿には匹敵しますが、関羽殿には及ばないぐらいですよ」というもので、

これを見た関羽は大変満足したそうです。

劉璋の降伏による成都陥落

各地の劉璋軍は次々に敗れ、成都を完全に包囲されることになります。

 

ただ上でも述べたように、

そんな絶望的な状況であったにもかかわらず、

 

成都の将兵の士気は高く、長期戦に備えた食糧も十分に確保できていました。

 

 

劉璋も戦う予定ではあったのですが、

劉璋にとって大きな誤算だったのが馬超の帰順でした。

 

馬超の武勇は益州では絶大な効果があり、

益州では関羽・張飛の数倍と言っていいほどの影響力があったのです。

 

これにより劉璋の戦意はだいぶ薄れたといいます。

 

 

そこをついて劉璋を降伏させるために訪れたのが簡雍でした。

 

簡雍は関羽・張飛と同様に初期から付き従っていた一人で、

どことなく不思議な感覚を持った人物でした。

 

簡雍の話を聞いた劉璋は、戦わずして降伏したといいます。

いぶし銀、簡雍(かんよう)/劉璋を降伏させた男

 

これにより北の曹操、南東の孫権、南西の劉備という

三国志の構図が完成を迎えたわけです。

 

そして諸葛亮が描いた天下三分の計が見事に実現した瞬間でもありました。