姜維の北伐

諸葛亮が死去した後、蜀漢では蒋琬、費禕らが政権を担いました。

この時代には、北伐を行いながらも、国力とのバランスを考えた慎重な政治が行われています。

 

ところが費禕が延熙十六年(253年)に暗殺されると、蜀漢の政治と軍事は次第に変化していきます。

 

その後、軍事面で大きな存在感を持つようになったのが姜維でした。

姜維は諸葛亮の後継者の一人として北伐を続け、魏に対して幾度も軍を進めます。

 

魏は蜀漢よりはるかに大きな国力を持っており、

蜀漢が守勢に回り続ければ、長期的には魏に圧倒される危険もありました。

 

だからこそ姜維にとって北伐は、単なる領土欲ではなく、

蜀漢が生き残るために魏へ圧力をかけ続けるという戦略的意味も持っていたと考えられます。

 

 

しかし、その一方で、遠征を繰り返す以上、蜀漢に相応の負担がかかったことも否定できません。

景耀五年(262年)、姜維は侯和の戦いで鄧艾に敗れると、沓中に退いて屯田を行うことになります。

黄皓の台頭

まさにこの時期、蜀漢内部では別の問題が大きくなっていました。

 

その人物こそ、宦官の黄皓です。

黄皓は劉禅の側近として次第に勢力を伸ばしていきました。

 

黄皓が権勢を振るうようになった背景には、董允の死去がありました。

 

董允は劉禅の側近として黄皓を厳しく抑えていた人物です。

陳寿も正史『三国志』において、董允が黄皓を強く警戒していたことを記しています。

 

ところが董允が亡くなると、その抑えが弱まり、黄皓は次第に劉禅の側近として影響力を強めていきました。

そして、その黄皓と対立することになったのが姜維です。

 

姜維は黄皓の専横を警戒し、後主劉禅に対して黄皓を処罰するよう求めたとされています。

ところが劉禅は、

「黄皓はただの小臣にすぎない」

という趣旨の態度を示し、姜維の懸念を深刻には受け止めませんでした。

 

姜維は黄皓の背後に多くの人間がつながっていることを察し、それ以上強く追及することを避けます。

そして、ここから姜維の身にも変化が生じます。

成都に戻れなくなった姜維

「蜀志」姜維伝には、興味深い記述があります。

姜維は黄皓との対立を警戒するようになり、成都へ戻ることを避けるようになったのです。

 

さらに、右大将軍の閻宇が黄皓と親しくしていたことから、

黄皓が姜維を排除して閻宇を用いようとしているのではないかと姜維は疑っていました。

 

そのため姜維は、成都から遠く離れた沓中に留まり、屯田を行うようになります。

これは姜維にとって、軍事的な意味だけではありません。

成都へ戻れば、自分の身が危うくなる可能性がある。そう考えていた可能性があったのです。

 

こうして蜀漢の軍事を担う姜維と、

皇帝劉禅の側近として宮廷内で力を持つ黄皓との間には、深い溝が生じていきました。

そして、この対立が最悪の形で表面化するのが、景耀六年(263年)の魏による侵攻でした。

司馬昭、蜀漢攻略を決断する

魏では司馬昭が蜀漢への大規模な侵攻を決定します。

魏は、鍾会・鄧艾・諸葛緒らに軍を率いさせ、複数の方面から蜀漢へと攻め込ませました。

 

鍾会は大軍を率いて漢中方面へ向かい、鄧艾は姜維が駐屯する沓中方面へ進軍します。

さらに諸葛緒が姜維の退路を遮断するという、非常に大規模な作戦でした。

蜀漢にとって、これまでの北伐とはまったく意味が違います。

 

今度は魏が、蜀漢を滅ぼすために本格的な侵攻を開始したのです。

 

 

ただ姜維は、この侵攻を完全に予想していなかったわけではありません。

 

姜維は鍾会が関中で軍を整えていることを知ると、劉禅に上奏しています。

その内容は、陽安関口や陰平方面に兵を配置し、魏軍の侵攻に備えるべきだというものでした。

 

ところが黄皓は巫者などに敵の動向を占わせ、

「魏軍は攻めてこない」という情報を劉禅に伝えました。

その結果、姜維の警告は十分に生かされませんでした。

 

そして魏軍が実際に動き出してから、蜀漢は慌てて防衛軍を動かすことになります。

これは黄皓の判断が結果的に蜀漢の初動を遅らせ、蜀漢にとって大きな痛手となったのです。

漢中防衛線の崩壊

魏軍の侵攻が始まると、姜維は沓中から撤退します。

 

一方、鍾会は大軍を率いて漢中へ進撃しました。

蜀漢側も張翼・廖化・董厥らを動員して迎撃します。

 

しかし、漢中方面の防衛線は次第に崩れていきます。

陽安関口では蜀将の蒋舒が魏に降伏し、傅僉は最後まで戦って討死しました。

こうして魏軍は漢中へ進出します。

 

姜維は魏軍の進撃を阻止するために動きますが、

最終的には張翼・廖化・董厥らと合流し、剣閣へ退いて鍾会を迎え撃つことになります。

剣閣攻防戦

剣閣は、蜀漢にとって非常に重要な防衛地点でした。

蜀漢の地形は険しく、特に成都へ向かう道には天然の要害が数多く存在します。

その中でも剣閣は、蜀漢軍が魏軍の大軍を食い止めるのに適した場所でした。

 

姜維はここで鍾会を迎え撃ちます。

鍾会は大軍を擁していましたが、剣閣の防衛を突破することができません。

戦線が膠着すると、今度は魏軍側の問題が大きくなってきます。

それが兵糧問題でした。

 

魏軍は本国から遠く離れた蜀漢の山岳地帯へ進軍していました。

大軍を維持するには、それだけ大量の食糧が必要になります。

鍾会は剣閣を突破できないうえ、補給線も伸び切っていたため、ついには撤退を検討するほどの状況に追い込まれます。

 

つまり姜維は、剣閣において魏軍を正面から撃破することはできなかったものの、

魏軍の進撃を見事に食い止めることには成功していたのです。

 

ところが、ここで鄧艾が別の作戦を提案します。

誰も想定しなかった道を進むべきである。

正面から剣閣を突破できないのであれば、剣閣を突破しなければいい。

 

鄧艾が目をつけたのは、陰平から蜀漢の奥地へ抜ける険しい山道でした。

そこは人がほとんど通らない、非常に険しい道です。

 

鄧艾は精鋭を選び、陰平から山岳地帯へ入っていったのです。

その道は、まさに命懸けであり、鄧艾はそんな険しい山道を進み、食糧も次第に乏しくなっていきました。

 

「魏志」鄧艾伝には、鄧艾自身が毛氈に身を包んで山を転がり落ちるように進み、

兵士たちも木々や崖を伝って進んだという壮絶な記述が残されています。

 

そして鄧艾軍は、蜀漢軍がほとんど想定していなかった場所から姿を現しました。

そこが江油の地(江油城)であり、そこを守っていたのは馬邈でしたが、鄧艾に降伏してしまいます。

これによって、蜀漢の防衛線は一気に崩れていきます。

綿竹攻防戦

鄧艾が成都へ向かって進撃してくると、劉禅は諸葛瞻に迎撃を命じました。

諸葛瞻は、蜀漢の丞相として国を支えた諸葛亮の息子です。

 

そのため、蜀漢の人々からすれば、

「諸葛亮の息子が蜀漢最後の戦いを指揮する」という、非常に象徴的な場面でもありました。

 

しかし、諸葛瞻の判断には問題がありました。

鄧艾軍が進出してきた際、黄権の子である黄崇は、迅速に険しい場所を確保するよう諸葛瞻に強く進言します。

黄崇は何度も進言し、ついには涙を流して訴えたとも記されています。

 

しかし諸葛瞻は迅速に進出することができず、その間に鄧艾軍は前進していきます。

 

ここは非常に重要な部分です。

黄崇が後世に高く評価されるのは、単に黄権の息子だったからではありません。

最後の瞬間まで蜀漢を守るために、最善と思われる策を諸葛瞻に訴え続けた人物だったからです。

 

やがて諸葛瞻は綿竹へ退き、ここで鄧艾を迎え撃つことになります。

 

綿竹では、蜀漢最後の名門たちが一堂に会することになりました。

  • 諸葛瞻(諸葛亮の子)
  • 諸葛尚(諸葛瞻の子)
  • 黄崇(黄権の子)
  • 張遵(張飛の孫)
  • 李球(李恢の甥)

 

しかし、彼らは魏軍の前に次々と倒れていきます。

諸葛瞻も戦死し、諸葛尚もまた父の死後に戦場へ赴いて討死しました。

黄崇、張遵、李球らも戦死します。

 

この綿竹の戦いによって蜀漢最後の主力防衛軍は崩壊しました。

そして、成都への道が開かれてしまいます。

劉禅、降伏を決意する

綿竹を突破した鄧艾は、そのまま成都へと進みます。

 

この時点で、劉禅の周囲では、

  • 成都に籠城する
  • 南方へ逃れる
  • 呉へ逃亡する
  • 魏へ降伏する

など、さまざまな意見が出ました。

 

その中で降伏を進言したのが、光禄大夫の譙周でした。

譙周は、蜀漢がこれ以上戦えば民衆がさらに犠牲になると考え、魏への降伏を勧めます。

 

劉禅はこの意見を受け入れました。

そして劉禅は、鄧艾に降伏するための使者を送り、蜀漢の軍隊に対して武器を捨てるよう命じます。

「魏志」後主伝には、この時に蜀漢が保有していた戸数や人口、兵力、米穀などの数字まで記録されています。

 

そこには、次のように記されています。

戸数二十八万、男女九十四万、兵士十万二千。

 

こうして、劉備が築いた蜀漢は終焉を迎えることになります。

劉禅降伏

劉禅は、車に棺を載せ、自らを縛った姿で鄧艾の軍営へ赴きます。

これは、自らの命を差し出す覚悟で降伏することを示す行為でした。

 

これを見た鄧艾は劉禅の縄を解き、棺を焼いて劉禅を迎え入れました。

そして劉禅を処刑するのではなく、魏の臣下として待遇することになります。

さらに鄧艾は成都に入った後、蜀漢の官僚たちをそのまま用い、成都の秩序を維持しました。

 

蜀漢の滅亡に際して大規模な略奪が行われたという形ではなく、

鄧艾はむしろ蜀漢の人々を懐柔する姿勢を見せたのです。

これは、これから魏が蜀漢の統治を行っていくうえでも重要な意味を持っていました。

蜀漢滅亡

劉禅が降伏したことで、蜀漢は滅亡しました。

劉備が221年に皇帝を称してから、およそ42年。

諸葛亮、姜維、張翼、廖化らが長年にわたって守り続けてきた蜀漢という国家は、

ついに魏の前に屈することになったのです。

 

しかし、蜀漢の滅亡を姜維が北伐をやりすぎたから、

あるいは、黄皓が政治を腐敗させたからとだけで説明することはできるものではありません。

 

姜維には、魏の圧倒的な国力に対抗するために戦い続けなければならない事情がありました。

黄皓についても、蜀漢末期の政治に悪影響を与えたことは確かですが、彼一人が国家を滅ぼしたわけではありません。

 

そして何より大きかったのは、魏そのものが蜀漢を滅ぼすだけの軍事力を整え、

司馬昭の決断によって一気にそれを投入したことでした。

さらに鄧艾による陰平からの奇襲的な進軍が、蜀漢の防衛計画そのものを崩壊させました。

 

姜維は剣閣で鍾会の大軍を食い止めていました。

正面から見れば、蜀漢にはまだ抵抗する力が残っていたのです。

 

ところが鄧艾は、その「正面」を避けました。

剣閣を突破できないなら、剣閣を迂回する。

この決断こそが、蜀漢滅亡の決定的な一手となりました。

 

 

劉禅が降伏した時、姜維はまだ剣閣方面にいました。

しかし劉禅から降伏命令が届くと、姜維は魏に降伏します。

 

ただ、その心まで魏に屈したわけではありませんでした。

後に姜維は鍾会に接近し、蜀漢復興を目指す策を抱くことになります。

つまり、劉備から始まった蜀漢の夢は263年に国家としては滅亡しましたが、姜維の中ではまだ終わっていなかったのです。

 

蜀漢が滅亡した後、姜維は鍾会を利用して再び蜀漢を復興しようと画策します。

しかし、この計画も失敗し、姜維は鍾会とともに最期を迎えることになります。

こうして劉備が掲げた「漢室復興」の夢は、完全に途絶えることとなったのでした。

 

そして中華の地に残されたのは、魏と呉の二国となったのです。

また三国の一角が崩れたことで、中華統一への流れは一気に魏側へ傾いていくことになります。