蜀呉激突へのカウントダウン
長年のライバルであった曹操がこの世を去り、
曹丕が跡を継いで皇帝となり「魏」を建国したことで漢王朝は滅亡してしまいます。
そしてその少し前に、
劉備にとって関羽が呂蒙・陸遜らによって背後を襲われて討たれ、
荊州を失ってしまったという状態でした。
関羽の死と漢王朝の滅亡という、
劉備にとってダブルショッキングとも言える出来事が重なりますが、
漢王朝がまだ滅んでいない事を世に示す意味でも劉備も続いて皇帝となったのでした。
この話は前章でも少し述べていますが、
劉備は皇帝という地位まで昇りつめたものの・・・
その内心は悲しみのどん底にいるような感じだったわけです。
関羽と苦楽を共にしてきた張飛も、
劉備同様に同じ気持ちだったのは言うまでもないでしょう。
二人のその思いは限界に達し、関羽の弔い合戦として孫権を討つことを決意します。
これには周りの多くの者達が反対しています。
その中でも趙雲は劉備に対して、
「公私が混合しており、今討つべきは漢王朝を滅ぼした魏の曹丕である!」
と呉討伐に乗り出そうとする劉備に対して面を向かって反対したわけです。
しかし劉備は任侠精神のもと人と付き合ってきた人間であり、
皇帝という立場よりも一人の人間として自分の思いを貫いて呉への侵攻を決定します。
それに対してこれ以上劉備を止める者はおらず、
呉への侵攻準備を開始したのでした。
「張飛の死」負の連鎖続く
孫権討伐の為に呉への侵攻が決定し、
兄貴分である関羽の復讐戦に燃えていた張飛だったのですが、
これから決戦という時に、
部下の范彊・張達の裏切りにあって殺害されてしまいます。
范彊・張達の二人は張飛の首を持って孫権へと降ったのでした。
張飛は常日頃から部下に対してのあたりが厳しく、
それに伴って多くの恨みをかったりしていたんですが、
それが張飛にとって一番無念のタイミングで部下の裏切りを招いてしまったわけですね。
関羽が死んで、今度は張飛が死ぬという負の連鎖が続いたのでした。
劉備は張飛陣営から上奏文が届いた際に、
「張飛が死んだんだな・・・」と上奏文を見る前に張飛の死が分かったのだと言います。
張飛は常日頃から部下の処刑を執行したり、部下を虐げる事も多かった為に、
「いつかこんな日が来るのだろうなぁ」と予想できていたようです。
しかしそれがこんなタイミングだったことは、
劉備にとってもこの上ない悲しいタイミングだったのでした。
劉備を旗揚げ時より支え続けてきた関羽・張飛が、
相次いでこの世を去ることになりますが、
関羽・張飛の武勇は天下に響き渡っており、
多くの敵陣営の人物によって高い評価を受けています。
郭嘉や程昱は曹操陣営を代表する軍師の二人ですが、
どちらも「関羽・張飛はそれぞれに一万人の兵に匹敵する!」と非常に高い評価を与えていました。
また孫策・孫権に仕えた周瑜は、
「天下二分の計」を用いる際に劉備と関羽・張飛を引き離して、
「二人に兵を率いさせて益州侵攻すれば必ず攻略できる」と言っていたほどでした。
郭嘉・程昱・周瑜それぞれに曹操・孫策・孫権を代表する人物ですが、
その人物にこれほど高く評価された関羽・張飛の武勇は天下に響き渡っていたわけです。
そしてその関羽・張飛の二人が、
どちらも不慮の死によってこの世を去ることになったのは因果ですね。
夷陵の戦い(劉備VS孫権)
関羽復讐戦の予定が、関羽・張飛復讐戦のようになってしまった劉備は、
孫権を倒すべく予定通りに呉への侵攻を開始します。
劉備軍の勢いはすさまじく、
劉備を撃退する為に出陣してきた呉の軍勢を次々に打ち破りました
三国志演義では、関興・張苞が父親の無念を晴らすために参戦して、
大活躍するという胸アツな展開が記載されてもいますしね。
しかし劉備の軍勢は侵攻を続けたことで五十前後の陣営にまで拡大し、
広い地域に渡って兵士が分散されてしまう事になってしまいます。
つまり全体では大きな兵力だとしても、一つ一つの陣営が手薄となってしまったわけです。
そこを突かれる形で、陸遜による火計が発動!!
陸遜の計略が見事に決まった事で、劉備は半端ない被害を被ります。
これは蜀が立ち直れないと言われたほどの被害であり、
劉備は多くの兵士を失ったばかりでなく、多くの有能な人材までも失ってしまう事となります。
例えば、馮習・王甫・馬良・傅彤なんかですね。
ただ馬良以外はそれほど名前を聞いた事がないかもしれませんが、
馮習なんて夷陵の戦いの総指揮を任された人物ですからね!
普通なら総指揮をとる者は比較的安全な場所にいることが多いですし、
いくらでも逃げるチャンスがあるのが普通です。
そんな馮習が普通に討ち取られている点を考えても、
この戦いでどれほど劉備軍が手痛い被害を被ったのが分かるというものです。
ちなみに王甫は三国志演義では関羽の死を聞いて、自ら命を絶っていますが、
王甫は夷陵の戦いまで生き抜いています。
後は黄権が蜀が大敗したことで逃げ場を失った形で仕方なく魏へと降っています。
黄権としては呉に降るぐらいなら魏へ降るという選択だったのでしょう。
この黄権という人物を失ったのも蜀にとっては痛すぎました。
黄権は漢中へ侵攻した際の骨組みを作った人物であり、
夷陵の戦いでも「これ以上陣営を広げたら逃げるのもままならなくなりますよ」と劉備に注意した人物でもあります。
しかし劉備は黄権の言葉に耳を傾ける事がありませんでした。
黄権は魏で車騎将軍にまで昇進していることからも、
どれほど優れた人物であったかが分かるというものですね。
三国で人材に一番優れている魏で、
車騎将軍に昇進するには、並々ならぬ能力がないとまず厳しいでしょうから・・・
ましてや蜀から降った降将という立場というのも忘れてはいけない事実です。
劉備の最後&劉備の遺言
多くの将兵を失ってしまう結果になった劉備ですが、
なんとか白帝城まで逃げる事に成功します。
しかし劉備にとって、
関羽と張飛の死&漢王朝の滅亡&夷陵の戦いで大敗・・・
短い間に劉備にとっても耐えられないほどの負の連鎖が続いてしまいました。
劉備は夷陵からなんとか逃げおおせたものの、
失意のどん底にまで落ちており、完全に生きる気力を失ってしまったわけです。
そして自分の命が長くない事を悟ると、
諸葛亮・李厳らを呼び寄せて後事を託してこの世を去ったのでした。
この時の遺言は有名なものですが、
「劉禅が皇帝に相応しい人物なら補佐して欲しい!
しかし劉禅が跡継ぎとして相応しくないのなら諸葛亮が跡を継いでくれ!」という遺言ですね。
この言葉があまりにも有名過ぎて霞んでしまいますが、
「馬謖は自分の実力以上の事を平気で口にする人物だから、あまり信用してはいけない!」
といった遺言も残しています。
これは後日談の話になりますが、
劉備の遺言で言われた言葉をスルーして馬謖に役目を任せる事も多く、
第一次北伐の際に、馬謖に街亭を守らせた際に大敗したことは有名な話です。
魏呉激突(曹丕VS孫権)
蜀呉が総力戦でぶつかった夷陵の戦いで勝利した呉でしたが、
蜀ほどではないにしろ呉も大きな被害を被っていました。
勢いのまま呉は蜀に攻め込むと踏んでいた曹丕は、
チャンスとばかりに呉に攻め込んできます。
表向き的には関羽討伐戦から曹丕と孫権は同盟を結んでいるような状態でしたが、
戦乱の世であるからこそ、約束を反故にすることなど普通にあるのが現状だったのです。
この時に魏が三方面より攻めてきたことにより、
孫権は蜀に続いて魏との戦いを余儀なくされたのでした。
夷陵の戦いで劉備を打ち破ってからたったの三カ月での魏の侵攻だったわけです。
ただ裏話的な話をいれると、
単純に呉の油断をついて攻め込んだというより、
曹丕が孫権に対して服従させる意味でも、
皇太子であった孫登を人質に出すように孫権に命令していました。
しかし孫登を人質として出すことはなく、
孫権が断っていた事に腹を立てて曹丕は出陣したとも言われています。
曹丕が三方面から侵攻した戦いは次の三つになります。
- 洞口の戦い
- 濡須口の戦い
- 江陵の戦い
洞口の戦い(曹休・張遼・臧覇VS呂範・全琮・徐盛)
第一戦でまず曹休と呂範との間で水軍戦で激突して、
呂範に対して曹休が勝利!
次に全琮・徐盛が臧覇との戦いに勝利し、
勢いのまま曹休・張遼を打ち破った事により呉の勝利で決着します。
濡須口の戦い(曹仁VS朱桓)
濡須口の守りを任されたのは朱桓という人物でしたが、
朱桓の守る軍勢は五千人程度なのに対して、曹仁の軍勢は数万人ほどだったといいます。
曹仁は大軍をもって朱桓に襲い掛かりますが、
これに対して朱桓は兵士を励まして計略を駆使して曹仁を迎え撃ちました。
まず朱桓は不安に陥っている兵士に対して、
「俺と曹丕を比べても俺の方が優れている。
ましてや曹丕の部下である曹仁など話にもならない!!
そして曹仁は遠征してきており疲弊しきっているし、
地の利までこちらに味方してくれている! 勝って当たり前なので心配無用だ!!」と鼓舞して士気を高めたのです。
そして次にこちらの士気が低下しているように見せる為に、
城の旗指物を隠して、静かに身を潜めさせたのでした。
この様子を見た曹仁は朱桓が守る城へと襲い掛かりますが、
完全に朱桓の罠にはまる形で曹仁は敗北してしまう事となります。
これにより曹仁は撤退し、呉の勝利で決着したわけです。
江陵の戦い(曹真・夏侯尚・張郃・徐晃・辛毗・文聘・満寵VS朱然・諸葛瑾・潘璋・孫盛)
曹真・夏侯尚が数を頼りに朱然が守る江陵城へと襲い掛かります。
しかし江陵城はびくともしません。
また一方で江陵城を守る朱然の援軍としてかけつけてきた孫盛と張郃が激突しますが、
この戦いは張郃に軍配があがり、孫盛が敗北してしまいました。
これにより孫盛が陣を敷いていた中洲という地が奪われてしまいます。
そしてその陣地を奪い返すべく、
諸葛瑾・潘璋が朱然の援軍としてかけつけ、中洲を奪い返したわけですが、
夏侯尚によって諸葛瑾が打ち破られてしまいます。
諸葛瑾は敗残兵をまとめなおし、
潘璋と共に二方面からか夏侯尚を攻撃しようと試みた際に、
その不利に気づいたか夏侯尚は撤退していきました。
江陵を守る朱然は孤独奮闘し、城内で疫病が流行ったりと士気が低下していましたが、
朱然は兵士を鼓舞して戦い続けます。
あまりにも堅固な江陵城を攻略すべく、曹仁は場内から裏切らせることで江陵城陥落を試みますが、
この計画は事前に朱然によって防がれてしまったのです。
最終的に疫病が魏軍の中で蔓延したことで撤退しています。
これは赤壁の戦いで疫病が蔓延した為に撤退した時と状況は似ていますね。
皇帝即位を拒んだ孫権
蜀皇帝の劉備&魏皇帝の曹丕を見事に打ち破った孫権ですが、
二人と競う意味でも皇帝になるように臣下に皇帝即位を勧められたといいます。
しかし孫権は皇帝となることで、魏・蜀と完全に敵対してしまう事を恐れ、
控えめに皇帝即位は遠慮したわけです。
この時の孫権は曹丕によって表向き呉王に封じられており、
表向きは曹丕に仕えている身分だったわけです。
漢王朝によって魏王に封じられた曹操の例が分かりやすいと思いますが、
完全に孫権が独立した形であり、あってないような関係でした。
まずは蜀・魏の大軍を立て続けに破った事でよしとしたのでした。
孫権は表向きとはいえ、蜀・魏のどちらかと同盟を結んでいた事で、
様々な危機をこれまで乗り越えてきていましたが、
今現在両国と敵対している現状を心配していたのです。
そして魏の三方面攻撃を打ち破った際に、
両国の関係を元に戻すべく、蜀が呉との国交回復を務めていくわけです。
後日談になりますが、劉備の跡を継いだ劉禅は孫権と盟を結びなおし、
今後魏との戦いを繰り広げていく事になります。
そしてこのタイミングでの皇帝即位を却下した孫権でしたが、
魏の三方面の攻撃から約6年後の229年に皇帝に即位して呉を建国しています。