鄧艾、蜀を滅ぼした直後に謀反の疑いをかけられる

蜀漢を滅亡へと追い込んだ最大の功労者の一人が、魏の鄧艾でした。

 

景元四年(263年)、鄧艾は鍾会らとともに蜀へ侵攻すると、

鍾会が剣閣で姜維と対峙している間に、険しい陰平の山道を越えて蜀の背後へと回ります。

 

そして江油を降し、綿竹では諸葛瞻率いる蜀軍を撃破。

そのまま成都へ迫ったことで、劉禅はついに降伏を決断しました。

こうして蜀漢は滅亡し、鄧艾は一躍、蜀討伐の最大の功労者となったのです。

 

ところが、鄧艾の運命は、ここから急速に暗転していくことになります。

鄧艾、蜀を安定させようとする

劉禅が降伏すると、鄧艾は益州を安定させるために動き始めます。

鄧艾は蜀の旧臣や民衆に対して寛大な処置を取り、旧蜀の官吏についても、その地位や能力に応じて登用しました。

 

さらに劉禅についても、鄧艾は独断で「行驃騎将軍」に任じています。

これは鄧艾が魏の朝廷から正式な許可を得たうえで行ったものではありません。

 

鄧艾は漢代の鄧禹の故事を引き合いに出し、

戦地における権限を利用して、劉禅や蜀の旧臣たちの処遇を次々と決めていったのです。

さらに鄧艾は、蜀漢を滅ぼした勢いを利用して、今度は呉を討つべきだと考えていました。

 

蜀の地を平定しただけで満足するのではなく、

「益州を拠点として長江方面へ進出し、呉まで攻め滅ぼす」

という、鄧艾にはそのような構想があったのです。

 

「蜀を滅ぼした直後だからこそ、呉も動揺している。この好機を逃すべきではない。」

おそらく鄧艾はそのような感じで考えていたのでしょう。

 

しかし、この積極的な姿勢が、やがて鄧艾自身の命取りとなります。

鍾会、鄧艾を追い落とす

鄧艾が蜀の地で独断専行を重ねていることを、快く思わなかった人物がいました。

 

それが鍾会です。

実は鍾会自身も、蜀討伐によって大きな功績を挙げていました。

ところが、最終的に成都を陥落させ、劉禅を降伏させたのは鄧艾です。

 

蜀攻略における最大の功績を鄧艾に奪われた形となった鍾会が、

鄧艾に対して複雑な感情を抱いていたとしても不思議ではありません。

 

しかも鄧艾には、鍾会から見れば格好の材料がありました。

それが、朝廷の許可を待たずに蜀の旧臣を任命したことや、劉禅の官位を勝手に定めたことです。

鍾会はこれを利用し、鄧艾が専横していると司馬昭に訴えました。

 

そして司馬昭は鄧艾を召還することを決定しました。

これにより鄧艾には檻車が送られ、洛陽へ護送されることになります。

蜀漢を滅ぼした英雄だった鄧艾は、わずか数か月後には一転して「謀反の疑いをかけられた罪人」となってしまったのです。

鍾会にも別の野心があった

鄧艾を陥れた鍾会自身も、

決して純粋に魏王朝へ忠誠を尽くしていたわけではありませんでした。

鍾会には、蜀漢を討伐した大軍を利用して、魏に対して反旗を翻そうという野心があったのです。

 

そして、そんな鍾会に近づいたのが、かつて蜀漢のために戦い続けた姜維でした。

 

姜維は劉禅が降伏した後も、すぐには鍾会に降りませんでした。

しかし最終的には鍾会のもとへ赴き、降伏します。

 

ここから、非常に奇妙な関係が生まれることになります。

 

鍾会は姜維を高く評価し、厚く遇しました。

一方の姜維は、鍾会が鄧艾を排除しようとしていること、

そしてその背後に魏からの独立を狙う野心があることを見抜いていたとされます。

 

そこで姜維は、鍾会の野心を利用することを考えました。

 

「鍾会に魏から独立させ、その混乱に乗じて蜀を再興する。」

そんなふうに姜維は考えていたのです。

  • 鍾会は魏からの独立を夢見ていた。
  • 姜維はその鍾会を利用して蜀の再興を夢見ていた。

同じ陣営にいながら、二人の目的は決して同じではありませんでした。

鍾会・姜維の乱&崩壊

鍾会は鄧艾を排除すると、成都に大軍を集めました。

しかし、ここで大きな問題が生じます。

 

鍾会の反乱計画は、あまりにも多くの人間を巻き込むものでした。

そしてついには計画が魏軍の将兵たちに知られることになります。

鍾会は自分を支持しない魏の将兵を拘束し、成都で反乱を起こそうとしました。

 

しかし、拘束された将兵たちは反撃に転じます。

成都では大混乱が起こり、鍾会は殺害されました。

そして鍾会に協力していた姜維も、この混乱の中で命を落とすことになります。

 

またそれだけに関わらず多くの蜀漢の旧臣も巻き添えを食らう形で討たれていたりもします。

蜀漢を大きく支えた張翼であったり、蒋琬の息子で劉禅降伏後まで城を守り通した蒋斌もこの時に討死しています。

 

こうして、蜀漢を滅ぼした魏軍の総司令官である鍾会、

そして蜀漢の為に戦い続けた姜維は、ほぼ同時に歴史から姿を消すことになったのです。

 

 

ところが、悲劇はこれで終わりません。

鍾会の反乱が起こったことで、拘束されていた鄧艾を救出しようとする動きが生まれました。

鄧艾の配下たちは檻車を追い、鄧艾を救い出そうとします。

 

しかし、鄧艾を捕らえていた衛瓘は、鄧艾が解放された後に自分へ報復することを恐れました。

そこで衛瓘は田続らを動かし、鄧艾を殺害させます。

 

鄧艾は蜀を滅ぼした最大の功労者でありながら、

戦場で討ち取られたわけでもなく、敵に敗れたわけでもありません。

味方である魏の内部抗争に巻き込まれ、命を奪われてしまったのです。

 

さらに鄧艾の子・鄧忠も父とともに殺され、鄧艾の一族にも悲劇が及びました。

後に鄧艾の名誉は回復されることになりますが、蜀を滅ぼした英雄の最期としては、あまりにも悲しいものでした。

蜀漢最後の意地を見せつけた羅憲

そして蜀漢滅亡後、もう一人忘れてはならない人物として、羅憲の名が挙げられます。

 

劉禅が降伏したことで蜀漢は滅亡しましたが、

蜀漢のすべてがすぐに魏の支配下へ入ったわけではありませんでした。

益州の東端にあたる永安では、蜀の武将・羅憲が守備を続けていたのです。

 

羅憲はかつて成都で黄皓と対立したこともあり、その後、巴東太守として永安を守っていました。

 

そんな中、蜀漢の滅亡を知った呉が動きます。

呉としては、蜀が滅亡した以上、その旧領の一部を確保する好機でした。

呉の陸抗らが永安方面へ進軍すると、羅憲はこれを迎え撃つことになります。

 

羅憲にとって、もはや蜀漢という国家は存在しません。

しかし、それでも彼は簡単に城を明け渡しませんでした。

 

呉軍は永安を包囲し、激しい攻撃を繰り返します。

羅憲は魏へ救援を求めますが、魏もまた鍾会の反乱などによって大混乱に陥っていました。

 

そこで司馬昭は、羅憲を直接救援するのではなく、荊州方面から呉軍を牽制する策を取ります。

魏軍が呉の西陵方面を攻撃したことで、呉の陸抗は永安への攻撃を続けることが難しくなり、ついに撤退しました。

こうして羅憲は、蜀が滅亡した後も永安を守り抜いたのです。

 

後に羅憲は、晋を建国した司馬炎に多くの旧蜀臣を推薦しています。

そして、その人物の中には後世に伝わる『三国志』を著した陳寿の存在もあったのは余談です。

司馬昭、晋王となる

蜀漢を滅ぼし、さらに鍾会の反乱まで鎮圧したことで、司馬昭の権力はますます強大になりました。

景元四年(263年)の蜀征伐によって司馬昭の政治的地位は大きく上昇し、翌264年にはついに晋王となります。

 

魏の皇帝は曹奐のままです。

しかし、実際の政治権力は司馬氏が握っていました。

 

かつて曹操が後漢の献帝を擁しながら実権を掌握していったように、

今度は司馬氏が魏の皇帝を擁しながら、その権力を強めていったのです。

 

ただし、司馬昭自身が魏の皇帝になることはありませんでした。

その最大の理由の一つとなったのが、翌265年の出来事でした。

魏の滅亡&晋の誕生

咸熙二年(265年)、司馬昭が病に倒れます。

そして同年8月、司馬昭は55歳でこの世を去りました。

 

司馬昭が最後に残した大きな課題。

それは、魏の皇帝からどのようにして天下の支配権を奪うのかという問題でした。

その遺志を継いだのが、司馬昭の長男である司馬炎です。

 

司馬炎は父の死後、その地位を受け継ぐと、魏の皇帝・曹奐を退位させます。

そしてついに魏に代わって晋王朝を建国されたのでした。

 

ここに、後漢末から続いてきた魏・呉・蜀漢の時代は、次の段階へと移っていくことになります。