「三国志演義」死せる孔明、生ける仲達を走らす

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」

という故事がありますが、

 

三国志の中でも非常に有名な言葉の一つになります。

 

 

この言葉が誕生したのはまさに諸葛亮(孔明)が、

五丈原で没した後になりますね。

 

 

そしてここからは故事に統一させて、諸葛亮ではなく「孔明」で、

また司馬懿ではなく「仲達」で名前を統一して呼びたいと思います。

 

ちなみに三国時代には姓名とは別にあざななるものが存在し、

諸葛亮の「字」が「孔明」、司馬懿の「字」が「仲達」といった感じになってます。

 

ちなみに曹操ならば「孟徳」、劉備ならば「玄徳」、

孫権ならば「仲謀」が「字」という感じですかね。

https://daisuki-sangokushi.com/2018/09/30/%e4%b8%89%e5%9b%bd%e5%bf%97%e3%81%ab%e7%99%bb%e5%a0%b4%e3%81%99%e3%82%8b%e4%ba%ba%e7%89%a9%e3%81%ae%e5%a7%93%e5%90%8d%e3%81%ab%e9%96%a2%e3%81%99%e3%82%8b%e7%a7%98%e5%af%86%e3%81%a8%e3%81%af%ef%bc%9f/

 

 

 

少し話がそれましたが、

孔明は劉備の意志を引き継いで漢王朝復興に尽力しており、

その実現の為に五度の北伐(魏討伐)に乗り出しています。

 

そして五度目の戦いが五丈原の戦いであると同時に、

孔明が没した地が五丈原でもありました。

 

 

孔明は自分自身の死期が迫っていることを悟り、

蒋琬・費禕・姜維・楊儀にきちんと後事を託したのでした。

 

また魏延には殿を任せており、

「もしも従わないことがあれば、

魏延を置いてでもすぐに退却せよ!

 

そしてその際は姜維が代わりに殿を務めよ!!」

とまで併せて指示を出していました。

 

 

それから間もなくして孔明は亡くなり、

蜀軍は撤退を開始します。

 

一方で仲達は天文を見る能力にも優れた人物であり、

丁度孔明が亡くなったタイミングで、大きな星が落ちたのを確認したわけですが、

 

それを見た仲達は孔明が亡くなったと確信し、

撤退中の蜀軍へ追撃を開始ししたのでした。

 

 

しかし仲達の前に、

孔明の木像が出現・・・

 

 

孔明の木像を目の当たりにした司馬懿は、

 

「またもや孔明の罠にかかった」と勘違いして、

なりふり構わず引き上げたのでした。

 

そして蜀軍は大きな痛手も追うことなく、撤退に成功したわけです。

 

 

この様子を揶揄して、

 

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」

と人々は口にしたと言います。

「正史」死せる孔明、生ける仲達を走らす

横山光輝三国志(59巻149P・150P)より画像引用

 

ちなみに上で述べた事は「三国志演義」での逸話ですが、

 

正史では次のような感じで、

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」が描かれています。

 

 

あくまで三国志演義の内容は、

 

「正史の内容をベースにしながら、

新たに孔明の木像という設定を作り上げられたものだ」

という事は覚えておきましょう。

 

 

 

とりあえず孔明が亡くなるまでの話は大体同じなので省略し、

孔明が五丈原で没した後から説明していきたいと思います。

 

孔明が亡くなると、

生前の指示通りに撤退を始めたわけですが、

 

撤退の様子を見た仲達は蜀軍追撃を開始します。

 

 

しかしそんな仲達に襲い掛かったのが、

殿を務めていた姜維でした。

 

諸葛亮に何度も痛い目にあわされてきた仲達としては、

それ以上の追撃を中止して撤退したといいます。

 

 

その仲達の様子を人々は揶揄して、

 

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」

という言葉が誕生したという感じですね。

 

 

これを後に聞いた仲達は、

「生きてる人間であればどうにかできるけれど、

死んでいる人間に対しては何もできない!」

と言った逸話が残っていたりします。

 

完全に仲達の負け惜しみとも言える発言ではありますね。

 

 

そして孔明が撤退した後の陣を見た仲達は、

「孔明は天下の奇才であった!」と言ったとか、

 

「孔明のごとき人物を今後見ることもないだろう」

と孔明を絶賛した話もあったりしますね。