目次
馬騰・韓遂の反乱
董卓が死んで後、王允・呂布を倒した李傕・郭汜らが、
長安を手中に治めていました。
194年3月に入ると、李傕・郭汜らから長安を奪う為に、
馬騰・韓遂らが長安へ攻め込みます。
今回攻め込んだ最大の要因は、
李傕・郭汜らに不満を持った内通者がいたからです。
そして実は今回長安を奪おうとしていたのは、
馬騰・韓遂だけでなく、益州の劉焉も一枚かんでおり、
長男の劉範が参加していました。
しかしこの計画は李傕・郭汜らに漏れ、
劉範は討たれ、馬騰・韓遂らも撃退されてしまいます。
また劉範が参加していたことで、
同じく長安に在籍していた次男の劉誕も処刑されてしまいます。
長安を奪う野心を見せた劉焉は、
長男・次男を失うはめになったばかりか、病気の為にこの世を去ります。
ここで本来跡目を継ぐことがなかったであろう四男の劉璋が、
劉焉の跡を継ぐことになりました。
※三男である劉瑁は病気の為、既にこの世を去っています。
曹操の徐州侵攻からの大虐殺
194年曹操が陶謙が治める徐州へ再度攻め込みます。
※193年にも攻め込んでいます。
今回徐州侵攻した理由は、
陶謙配下の武将に父である曹嵩が殺されてしまったからです。
一言でいうと私怨による復讐戦です。
曹操は自分の地盤ができつつあったので、
自分の元に曹嵩を呼び寄せようと考えでいた矢先の出来事でした。
これに激しい怒りを出した曹操は、
徐州の陶謙を討つべく出陣したというわけです。
この際、曹操の怒りは半端なく、
見境なく民衆まで虐殺していったことですね。
流れる川が死体で止まったという話もあるぐらいですから
大量の民衆を殺したのでしょう。
劉備が援軍としてかけつけてはいたものの状況は非常に悪く、
陶謙ももはやここまでかと覚悟した矢先に、曹操にとって不幸な事件が起こります。
曹操と仲が良かった張邈が、呂布と組んで背後で反乱を起こしたのです。
これを仕組んだのは元曹操に仕えていた陳宮でした。
事の重大さに慌てた曹操は、陶謙を相手にしてるどころではなくなり、
急ぎ撤退して呂布・張邈に備えざるをえなくなります。
仲が良かった張邈が裏切った原因
張邈は冀州で勢力を拡大しつつあった袁紹と仲が悪く、
この頃はまだ袁紹の家臣であった曹操に討伐を命じたりしていました。
曹操はその命令をなんだかんだ無視していましたが、
張邈は、いつ袁紹の命令で曹操がいつ攻めてきてもおかしくないと考えるようになり、
そこにつけこんだのが陳宮でした。
そしてこの反乱に際し、張楊のもとにいた呂布を呼び寄せ、
張邈はそれに乗っかる形にしたのです。
この反乱によって
兗州のほとんどが呂布・張邈らに奪われてしまいます。
陶謙の後継者に劉備が指名される
曹操の脅威が去りはしたものの、
その年に陶謙はこの世を去ってしまいます。
死の間際、陶謙は劉備の人柄に惹かれており、
能力も高く評価していた為、自分の後は劉備に任せるように遺言していました。
陶謙臣下であった陳登などからの勧めもあり、
劉備は陶謙亡き後の徐州を引き継ぐことになります。
曹操が呂布を破り、豫洲を奪い返す
陶謙討伐から急ぎ撤退した曹操は、呂布と対峙するわけですが、
一進一退で決着がつかない状態が続きました。
そんな中、大量のイナゴが発生し、
お互い食糧不足に陥った為、一時休戦となります。
翌年、再度戦うも変わらず一進一退の攻防が続きました。
しかし時間が経つにつれ曹操軍が優勢になり、
曹操は呂布・張邈らに奪われた兗州をすべて取り返すことに成功します。
張邈は討ち取られ、呂布や陳宮らは逃亡する事に成功し、
徐州を引き継いだばかりの劉備の元へ落ち延びていく事になります。
呂布、徐州を乗っ取る
陶謙の跡を引き継いだ劉備の元に、呂布が落ち延びてきます。
劉備は関羽・張飛の反対も聞かず、呂布を受け入れることを決意します。
そんな時に、袁術が徐州へ攻め込んできます。
陶謙亡き後、徐州の混乱に乗じて攻め取ろうと考えたのです。
そこで劉備が袁術を迎撃する為に、盱眙(くい)・淮陰に出陣します。
劉備軍も強く、苦戦した袁術は、
ここで徐州にいた呂布に裏切るように使者を送ります。
呂布はこれに乗り、劉備不在の徐州を奪ってしまいます。
これにより袁術と対峙していた劉備軍は崩れ、下邳の城は袁術に落とされ、
劉備はどうすることもできず、呂布に降伏を申し出ます。
しかし呂布が裏切ってくれた際に渡す予定だった食糧を袁術が出さなかった為、
これに呂布は激怒してしまいます。
そして劉備に兵を一部預け、沛県を劉備に任せる事にしたのです。
へんな形で呂布と劉備が再び同盟を結んだ瞬間でした。
孫策の快進撃
袁術の配下として活動していた孫策ですが、
いくら手柄を立てたとしても報われる事がなかった為、独立するチャンスを静かに狙っていました。
その為には地盤とすべく領土が必要だったのです。
先の戦いでは、袁術は袁紹を倒す為に出陣するも、
その野望は潰え、揚州進出を考え出します。
しかし曲阿にいた劉繇が袁術に激しい抵抗を見せた為、
袁術軍は苦戦を強いられていました。
そこで劉繇討伐に名乗りを上げたのが若き孫策でした。
これに任じられた孫策は、曲阿の劉繇を討つべく出陣します。
孫策から見れば、チャンスが到来したというわけです。
この時親友であった周瑜が孫策軍に合流を果たし、
劉繇を見事打ち破る事に成功します。
そして独立する地盤を広げるべく、
孫策はそのまま会稽を治める王朗の元へ攻め込んでいきます。
王朗軍は、孫策軍の勢いの前にあっさり蹴散らされ、
孫策は会稽を攻略し、王朗を降伏させます。
その後、そのあたりを根城としていた厳白虎(げんはくこ)らを討伐し、
丹陽郡を攻略し、これによって孫策は大きな地盤を獲得する事に成功します。
そしてこれは袁術からの独立を意味するのでした。
その他の動き
李傕・郭汜らによって統治されてた長安ですが、
二人の関係に亀裂が入ってきます。
そして二人が争いだすと、
長安の民衆含めて多くの者達が犠牲になってしまいます。
これに嫌気が差した献帝は長安を脱出し、
洛陽までいくことに成功します。
しかし洛陽はかつての都の風貌はなく、
董卓によって焼かれていた為、廃墟と化していました。
ここで献帝に手を差し伸べたのが曹操でした。
献帝を自分の拠点の許都に迎え、
これによって曹操は大義名分を得た戦いができるようになってきます。
このあたりから曹操は袁紹配下という立場から独立していき、
別々の道を歩んでいくようになります。
また朱儁の子であった交州刺史の朱符が、
現地の人々から恨みを抱かれ殺害される事件が発生します。
ここでこの地域で力を持っていた士燮(ししょう)が、
196年に交州で独立していく事になります。